ブログを続けるとすると、会員に寄稿してもらわないと困る。民藝と直接の関係がない適当な内容でいいし、短くてもいいので、どうか寄稿して下さい。今月も投稿がないので、例によってテキトーな、しかも自慢話を書くのであるが、ご容赦下さい。
で自慢だが、私はかの嘉手苅林昌(かでかるりんしょう)の東京の第1回公演を聞いている。調べてみると1973年昭和48年、沖縄復帰の翌年だったそうで、場所はかの上野本牧亭だった。本牧亭は1990年に閉場、嘉手苅は1999年に亡くなっているから古いはなしである。
当時、復帰問題のことで沖縄に多少の興味があって、その辺の本をすこし読んでいた。そのなかに竹中労という異色のルポライター、文筆家がいた。当時、沖縄民謡といっても本土では知る人がすくなく、地元ではともすれば低俗な音楽とされていたらしい。わたしと同世代の沖縄人がいうには、子供のころ民謡は歌っちゃいかん、三味線は不良がやることと教わったという。だが、竹中は著作『琉球共和国 汝花を武器とせよ』『琉歌幻視考 島うたの世界』で、沖縄民謡がいかにすごいかすばらしいかアジっていた。----「汝花を武器とせよ」なんていいではないか。「琉球フェスティバル」を始めたのも彼で、竹中が沖縄の芸能、民謡を日本本土に知らしめた功績は大きい。彼は琉球独立論者ではなかったがそれに近く、沖縄の芸能、民謡を、日本の芸能、民謡の一部、一変形ではなく、独立した存在として語っていたようだ。(竹中は奄美島唄についても当然語っているのだが省略)
さて嘉手苅林昌だが、背が高く痩せて面長、美声とは言えないしゃがれた声で突き放したように歌う人だった。この歌い方には好き嫌いがあって、現地沖縄では嘉手苅より有名な歌手が多くいた。半面玄人受けする、沖縄でより本土で人気が高いという評判も聞いた。竹中が絶賛したのが彼であり、竹中にアジられて私は本牧亭にいったのである。嘉手苅がなかば伝説化した現在からは想像がつかないかもしれないが。言葉がわからないのが致命的だし、ほぼなじみのない音楽で、こんなもんかいな、といった感じだった。ともかくそれが私にとって沖縄民謡を生で聴いた最初だった。
2つ目の自慢、大城美佐子と一緒に飲んだことがある。大城も戦後の沖縄民謡を代表する大物で、「女嘉手苅」とも言われたひとだ。知人の知人についていって同じテーブルにいた、というだけだが。もっとも、大城は民謡酒場をやっていたそうで、そこに行けば会えたはずで、たいした自慢にはならない。
3つ目、デビューして間もない大島保克の歌をごく少人数の会合で聞いた。畏れ多いがうまかった。そのとき大島はビギンと同じ学校だとか同級生だとか言っていた。大島のヒット曲「イラヨイ月夜浜」はビギンの比嘉栄昇作曲である。また保克の父親とも石垣島白保で一緒に飲んだ。やはり知人の知人宅に泊まったときのこと、彼は夜遅く三味線一丁持って訪ねてきて、何曲か歌ってくれた。真っ暗な夜だった。彼の家の屋号が「ひばり」だそうで、代々歌のうまい家系とされ地元の有名人とのことであった。のちに映画『白百合倶楽部東京へ行く』で、白保の老人たちのなかにいて三線を引く丸顔のがっしりしたおじさんがそのひとである。家がサトウキビ畑の中にあった。
以上いずれもどうでもいい話でお目汚しでした。
ついでに乏しい知識を披露すると、上の「ひばり」家のように、歌手、唄者(うたしゃ、沖縄、奄美ではこういう)の家系というものがあるようで、沖縄の歌手のうちもっとも有名な喜納昌吉は、やはり大スター喜納昇栄の子である。(私は、この喜納昌吉と具志堅用高、南沙織の三人が沖縄人に自信をつけさせた3大功労者だと思っている。)「りんけんバンド」の照屋林賢も照屋林助の子、「ネーネーズ」をつくった知名定男も知名定繁の子、父たちはいずれも民謡界の大御所である。
最後に推薦曲を。柳宗悦が聞きながら死んでいきたいと書いた「トゥバラーマ」は別格として、民謡とは言いがたいが、喜納昌吉の「東ア」(あがりざち)、ネーネーズの「面影」(うむかじ)、知名定男の「白瀬走川」(しらしはいかー)---これは、古典に同じ名の曲があるが、それを下敷きにした新曲である。それから、知名定繁の「別れの煙」と照屋林助の「ジントヨーワルツ」の聞き比べ、気が向いたら聞いてみて下さい、いいですよ。
(藤田)
posted by 東京民藝協会 at 16:17|
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