2020年06月29日

東京民藝協会に入会したきっかけ

昭和29年(1954年)に設立された東京民藝協会には、現在100人ほどの会員が所属しています。
このたび、数人の会員の方に「東京民藝協会に入会したきっかけ」を書いていただきました。入会をお考えの方のご参考になれば幸いです。
まずは、竹村知洋さんです。

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 私が東京民藝協会に入会したのは20歳頃(現在46歳)だったと記憶しています。その理由は、東京民藝協会の学生会員の年会費が「友の会」よりも安かったからです。当時は民藝運動に積極的に関わりたいというような高い志で入会したわけではありませんでした。
 最初に日本民藝館へ足を運んだ理由は、父の書棚にあった『民藝四十年』を読んだからです。初めてみた西館の長屋門の美しさに感激し、何度か続けて足を運んでいるうちに東京民藝協会のことを知り、現在に至っています。

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益子焼徳利と河和田塗猪口

 私と民藝品との出会いは生まれながらのものといえます。私の父は浅草のかっぱ橋道具街にある漆器屋に勤めておりました。また私の伯父は現代の名工として黄授褒章を受賞した伝統工芸士で、福井県鯖江市を産地とする越前漆器(河和田塗)の木地師です。小学生のころは夏休みになると伯父の家へ行っていましたので、伯父が朝早くから轆轤で木を削る音や周囲に漂う木の香りのことをよく覚えています。そのため私は幼いころから漆器に囲 まれた生活をしてきましたが、その美しさに気づいたのは大学時代に柳宗悦の著作を読んでからです。それからたびたび民藝館や工芸品店に足を運ぶようになり、気に入った工芸品を生活の中に取り入れていきました。
 私の仕事は中学・高校の社会科教員なので、授業のなかで民藝品の素晴らしさを伝えています。公民科の「倫理」の授業では、日本の現代思想の分野で柳宗悦を取り扱いますので、 実際に民藝品を見せ、直接触らせながら柳宗悦の民藝理論を教えています。
 その中で気づいたことは、10代の人でも民藝品に興味を抱いてくれる生徒が意外にも多いということです。子供は「物の美」について知らないだけです。大人も含めて日本人は全体的に自分の国の素晴らしさを知らない人が多いような気がしています。これは大変もったいないことだと感じています。
民藝の美を普及しようという民藝運動の意義はここにあると考えています。工芸分野の高齢化や後継者不足の問題は大変深刻ですが、若い人たちに民藝の美を知ってもらい、生活の中に少しでも民藝品を取り入れてもらえることで日本の伝統文化は受け継がれていくはずです。

壺屋焼抱瓶と猪口.JPG
壺屋焼抱瓶と猪口

 最初に東京民藝協会に入会したきっかけは単に費用の問題でしたが、今でも継続して入会している東京民藝協会の一員としてこれからも活動を続けていきたいと考えています。
(竹村知洋)

posted by 東京民藝協会 at 19:19| Comment(0) | シリーズ 協会に入会したきっかけ

2020年06月27日

田中俊雄と台湾

 『民藝』2020年6月号の特集は「田中俊雄と沖縄の織物」だった。1930年代後半以降の民藝運動を支えた田中俊雄の沖縄とのつながり、そしてその功績や経歴についても掘り下げられた貴重な内容で、たいへん興味深く読んだ。

 いくつかの論考でも触れられていたが、1940年前後に複数回行われた日本民藝協会による沖縄調査に参加していた田中は、沖縄の織物のルーツへの探求心から、調査の範囲を広げ、途中一人で台湾まで渡航している。1939年6月から7月にかけてのことだった。実は私が田中俊雄という人物に初めて関心を持つようになったのも、沖縄ではなく台湾を通じてであった。台湾資料を調べる過程で偶然目にした田中の台湾滞在記が強く印象に残ったのである。

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 沖縄から台湾へ足をのばした田中の旅が「大変なことになった」のは、那覇から基隆行きの船に乗り込んだ後だった。東京の芹沢_介から、どうせ行くなら南部の潮州の原住民居住地を経て東海岸に回れという電報が入ったのである。台湾一周まで予定していなかった田中は思わず懐具合を勘定したが、結局は芹沢の助言通りのルートで台湾の織物の制作状況を調査している(ただし懐の不安は的中し、最初に訪れたパイワン族の村での買物によって早々に「タマツキヌ」となった田中は、民藝協会より追加資金を受けながら旅を続けた)。

 現地での織物調査、そして台北の博物館や大学などでの所蔵品・文献調査の成果については、田中自身が『工芸』や『月刊民藝』にいくつかの貴重な報告を発表しており、その手法や内容は、彼が几帳面で真面目な、有能な仕事人であったことを物語っている。『民藝』6月号の年譜を見て驚いたのは、初めての土地でこうした仕事を一人でこなす田中が、当時まだ25歳の若さであったことだ。

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台湾大学人類学博物館。田中が足繁く文献調査に通った台北帝国大学土俗人種学教室の収蔵品が受け継がれている。

 田中の台湾関連の著作の一つに「台湾の蕃社」(『月刊民藝』1939年10月)がある。山深いパイワン族の村の訪問滞在記であり、私が田中に関心を持つきっかけになった文章でもある。長く険しい道中での忘れがたい光景や、出会った人々の営みが穏やかに切り取られた印象深い内容だが、『民藝』6月号を読み、田中が織物に対する専門性のみならず、文学的なバックグラウンドも有することを知って、その独特の表現力の豊かさにも合点がいった。

 腰に山刀を下げたパイワン族の青年に抱いていた警戒心が、道中を共にするうち次第に温かい感情に変わっていく様子、現地で律儀に書き取ってきたと思われるパイワン族固有の人名、彼らのふとした言葉から当時の社会構造に思い至り暗澹とする心情、山から送り届けてくれた青年たちをいつまでも見送って涙を催す結末など、この文章には、直接的にも間接的にも、田中の誠実かつ繊細な人柄が溢れ出ている。

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現在も屏東の山地に残るパイワン族の石板家屋群(2013年撮影)
(田中の訪問地とは異なる。田中の訪問した2村は、戦後低地へ移遷している。)


 「いささか何々様御登行の図」といった椅子駕籠(※)に乗る側の人でありながら、「何々様」のようになりきれない田中は、むしろ駕籠を担いでくれる人たちと同じ目の高さを共有するかのように彼らとの距離を詰めていく。『民藝』で白鳥幸昌氏が田中の戦後の活動を紹介されていたが、そこで指摘されている田中の視点の所在は、若き日の彼のなかにすでに息づいているようにも思える。
※椅子の両サイドに2本の太い竹の棒をつけ、4名の現地人(この文章では原住民)に担ぎ上げてもらう移動手段。険しい山道にも用いられた。

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村から望む周辺の山々。現地に着くまでには勾配のきつい険しい道が続く。

 さて、調査を終えて沖縄へ戻ろうとした田中は、天候不良が続いたため連日船が出ず、基隆港で足止めを食らってしまう。悶々と過ごした数日を経てようやく出航の知らせが届いた日、船出まで1時間を切っているというのに、田中は衝動的に外へ出て、台湾での最後の最後の時間をこう過ごしたと回想している。
田中は急に台湾に別れるのがおしくなって船をとびだし、本島人の町をあるきまわった。切々たる別れがたい懐しいものがこみあげてくる。一軒の屋台に腰をおろしてアヒルの足をかじりながら、ビールをのんだ。あたりをなでまわしたいような気持にかられる。急におもいだしたようにその屋台で柳宗悦氏あての手紙をかく。
(「日本民藝協会同人琉球日記 先島・台湾紀行」『月刊民藝』1939年12月 ※現代仮名遣いにあらため引用)

 その手紙を受け取ったであろう柳宗悦は、のちに自らも台湾を訪れ、同じように島内を一周しながら調査を行っている。
田中の旅から3年8か月後のことであった。
(天野)
posted by 東京民藝協会 at 19:12| Comment(3) | その他