福岡民藝協会の高木崇雄さんが標題の本を発行なさった。雑誌『民藝』の後ろの広告の中に変わった書体の広告があって、「工藝風向」とある。この店をやっているのが高木さんで、その高木さんが D&DEPARTMENT FUKUOKA で話をしてそれをまとめたものだという。第1章が講話、第2章がご本人とD&DEPARTMENTの主催者 ナガオカケンメイ氏等4人の座談会、第3章が風向のことなどについてのインタビュー、最後に推薦のブックリストという構成である。文庫本を一回り大きくした変形で、ずいぶん厚くて17ミリある。
畏れ多くも「わかりやすい民藝」という名前はいささか曲がないのではと思ったのだが、これはD&DEPARTMENTがこれまで続けてきた講座が「わかりやすい○○」で、それを引き継いだものだという。それはともかく「わかりやすい」というからには「わかりにくい民藝」があって、それとは違う説明をするぞ、という宣言も含まれている、かもしれない。そしてそれは、やはり畏れ多いのだが大方果たされているように思う。------読み終わって、基礎的教養がない私にもいくらかは理解できたような気がするから。
民藝が世間から受けている誤解のひとつに、「〇〇だから民藝」という考え方がある、と高木さんは言う。手作りだから、安いから、実用的だからなどなどの条件を満たしている、だから民藝である。逆にそれらの条件を満たしていないから民藝ではない。さらにここから、民藝館に並んでいるものは貴族的なものばかりではないか、などなどの批判も派生する。
これらの考え方、批判は「Aには1、2、3-----の性格がある」、だから「1、2、3-----の性格があるからAだ」と言っているようなもので、そもそも形式論理的に言って間違いなのだが。
高木さんはこの問題についてより原理的な考え方を示す。すなわち〈真実や美が順接ではなく逆説によってこそ示される、と考えた柳の思考の枠組みからするならば、これらは条件ではなく、むしろ「〇〇にもかかわらず」、「○○ではなく」という、否定を通して語っている、と受け止めなおされるべきなのです。〉(P136)と。そして実用性に対して非鑑賞性を、無銘性に対して非有銘性を、複数性に対して非単数性を、廉価性に対して非高価性を-----という風に具体的に条件(とされるもの)の読み替えを行っている。「実用性」を「非鑑賞性」-----鑑賞を目的として作られたものではない、と読み替えることで、民藝に対する理解が深まる、誤解が少なくなる、というのである。
さらに高木さんは、柳らが「民藝」という言葉を提示した時点にさかのぼって彼らの真意を明らかにする。〈柳が用いる「民衆的」とは会派を組んでは専横的に美の基準を決めてゆく彼らを「貴族的」と揶揄する反語であり、「大量」とは彼らが作るものが「一点限り」の仕事であることの反語であり、「廉価」もまたそう。柳が条件であるかのように用いた言葉はすべて、言葉の反対側に存在する「制度」を批判するための言葉だった〉(P139)。柳らには克服すべき対象があり、民藝はそれに向かって発せられた言葉だった、というこの指摘、私には新鮮だった。重要な指摘だと思った。
これら卓抜な説明によって民藝の理解は一歩進んだような気がするのだが、さてここである疑問と危惧に逢着する。それは、民藝が克服すべきある対象に向かって発せられたもの、特定の時代に生まれたものであるとするなら、既に対象が無くなってしまっており、有効期限も過ぎているのではないか。それから、ある教条を批判、克服するために登場した民藝はやがて自身が教条化していくのではないか、という2つである。これに対して高木さんはさすがに周到で、以下のように答えている。
前者については〈今という時代において、再び〈民藝〉という言葉が求められていることにも、しっかりした理由があると僕は考えます。-----今も「制度」が社会を覆い尽くし、一元化し、人々を孤立させようとする動きは続いています。-------つまり、ぼくらが自由を失わないための〈民藝〉としてです。〉(P152、153)と説く。(私にはここのところは十分に理解できないのだけれど)
後者については、柳の有名な文章を引用する。柳は解っていた。〈民藝という言葉は、仮に設けた言葉に過ぎない。お互いに言葉の魔力に囚われてはならぬ。特に民藝協会の同人はこの言葉に躓いては相済まぬ。------もともと見方の自由さが、民藝の美を認めさせた力ではないか。その自由さを失っては、民藝さえ見失うに至るであろう。〉(P150)。
以上第1章の紹介らしきものをやってみた。流布している民藝観の誤解を正し、同時に民藝の原理(の一部)を「わかりやすく」開示し得ているというのが私の感想である。類書を読んでいないので断言はできないのだが、こういう説明をしてくれた人はこれまでにいなかったのではないだろうか。
長くなったのでここで終わりたいところだが、第3章のご自分の店の経営方針について答えているその答えがあまりに立派で、素通りできない。
〈自分の店だけが良い出来の物を独占したい、と考えだすと、同業者に対して排他的になるし、作り手にとっても、僕の店だけでしか売れなくなってしまう〉
〈「こっちは店だからね」みたいな大きな顔をする店にはなりたくない〉
〈作り手に注文する際は、作ってほしいものよりも、作ってほしくないものをいう事のほうが多い〉
〈値付けに関して------基本的には作り手が示す標準的な価格のままです。-----価格は作り手にとっても、配り手にとっても思想であるはずです〉
〈「支払いはすぐに」と「守れない約束はしない」〉
〈「ほかにやらなければならないこと、気を遣わなければならないことが多い世の中なんだから、焼ものなんかにかまけていてもしょうがない」というひとにこそ、使ってほしい〉
〈立派な、誰もが認める暮らしを過ごすことが〈民藝〉ではないですよね〉
そして最後に、〈〈民藝〉は悩みから解放されるための便利な道具ではありません。-----良い工芸と共に生きることで、人は優れた友と生きるように日々を過ごすことができる、というのは柳の一つの考えです。-----なんで、たかが「美しい」程度のことで喧嘩しなきゃならないのか、その態度が美しくないのに〉
高木さんが美専一、民藝専一のひとではないことが喜ばしいではないか。そしてこれらの言葉は一工芸店の経営方針を越えて、渡世の流儀、それもかなり理想に近い渡世の流儀そのものではないか。敬服のいたりである。明日から高木さんを現代の石田梅岩と呼ぼう。
(藤田)

『わかりやすい民藝』
D&DEPARTMENT PROJECT 2020年7月15日発行 2,000円+税
posted by 東京民藝協会 at 17:59|
Comment(0)
|
その他