2021年01月31日

懐かしい笑顔

 志賀直邦会長が亡くなられてからいくらか時間も経ち、ようやく思い出を振り返ることができるようになりました。

 初めてお会いしたのは19年前、民藝を学んでみたいとの思いから、東京協会の例会にお邪魔した時でした。
誰の紹介もなく、いきなり門を叩いた私に、皆さん少し戸惑われていましたが、それでも志賀会長の、あの明るい笑顔と屈託のないお話しぶりに、私はすぐに溶け込むことができたのでした。
 その後は、当時の民藝協会本部の福本専務理事や、藤田さんにも大変親しくしていただき、広島へ転居するまでの僅か3年あまりではありましたが、大変心地よい「東京協会ライフ」を過ごさせていただきました。
何度か「たくみ」近くの居酒屋などでご一緒させていただきましたが、あの、始まると延々と止まらない志賀会長のお話・・・民藝とは関係のない話も出るのですが、それがとにかく楽しくて楽しくて。
 気づいたら、鎌倉へ向かう電車の終電近くとなり、新橋駅まで慌てて歩いたこともありました。

 当時「茶話会」と称していた勉強会や、現在まで続く「東京民藝協会からのお知らせ」を始めたのも、志賀会長の後押しがあったからです。
 まだひよっこ会員の提案に、志賀会長は「いいと思うから、ぜひやってみてよ!」と快諾してくださいました。
 その、若い人を信じ、託してくださる志賀会長の前向きな後押しは、その後東京を離れて広島県民藝協会で活動する今の私を形作っていただいたものだと思っています。
 その他、民藝館で志賀会長と待ち合わせている際に、館長室で柳宗理さんと二人きりになってドキマギしたこと、たくみでの「蔵出し市」の前の晩、初めて泡盛の古酒をいただいた時の美味しさへの衝撃・・・ここには書けないようなプライベートでのお願い事など、志賀会長にまつわる思い出は尽きませんが、そのどれもが今の私にとっては、大切な大切な思い出です。

 私の民藝人生が今に至るまでとなったのは、ひとえに志賀会長との明るい出会いから始まった、と言うのが、今の正直な思いです。
 広島に来てからはすっかりご無沙汰してしまったまま、このたびの訃報に接するに至った不義理をお詫びしつつ、天上で今も楽しそうにお仲間と話されているだろう志賀会長に、心からの御礼と、そのご冥福をお祈りいたします。
 ありがとうございました!!
(千葉 孝嗣)
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2021年01月25日

訃報をお聞きして

 志賀さんはジェントルマンで、風流人で、冠木門のあるおうちに住んでいらっしゃるような方だなと遠巻きにお見受けしておりました。
 会の集まりの食事の場所はいつも素敵なところで開いていただき、旅行もフツー旅行ではなく、何かしみじみしたものがある旅行でした。
 今までの旅行で一番印象深いのは、1998年頃の民芸の旅行で蓮如上人の城端別院(富山県)で行われた夏期講習会です。別院に泊まらせていただくという貴重な体験をさせていただき、朝は4時ころから檀家さんたちが集まり、朝食を作りもてなしていただきました。そのお食事のおいしかったこと。そのころグルメ雑誌をにぎわしていた有名レストランのものとはまるで違う次元のものでした。広いお堂を歩き回っても白いソックスが奇跡的に全く汚れませんでした。蓮如さんの奇跡かと思うほどでしたが、檀家さんたちのご奉仕できれいになっていたのでしょう。講演の休憩時間にはお庭を見渡す畳にのびのびと寝転がっている人もいて、のどかだけれど、民芸のことを真剣に知りたいと思う人たちが集まってよい会でした。志賀さんが企画される旅という感じでした。
志賀さんのご冥福をお祈りいたしますとともに民芸協会のさらなる発展を願っております。
(原 和加子)

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2021年01月22日

福岡のあまねや工藝店の本『くらしにあかりをともすしごと』

 畏友川口義典氏の本が出た(友と言うことを認めてもらえたらのはなしだが)。本の名前は『くらしにあかりをともすしごと』。彼は福岡市内で「あまねや工藝店」という店をやっている。それが創業40年になったので、周囲の人たちが記念に出版してくれたそうだ。こんなことはあまり聞いたことがない、希なことである。私はいまだに彼の店を見ていないのだが、そういういいお客さん、ファンを獲得してきたのだから良い店に違いない。店をやるという事を聞いて、きっと良い店になるだろうとは思っていたが、世の荒波を乗り切ってそれを実現してきたのだから立派なものである。

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 いまから40年以上まえまだ若いとき、彼は東京にいて、秋岡芳夫さんたちがやっていた「1100人の会」なる会の会員だった。私も会員で、気の合うことがあって、というか私が彼の能力に敬服していた。かなり理屈っぽく、モノにうるさく詳しく、駆け出しのわたしには文字通り畏友であった。彼にはいろいろなことを教わった。フィリピンのパシキン(背負い籠)やタイの藤ボール(セパタクローという球技につかう)、型ガラスの醤油差し、ネパールかどこかの薬缶などそれまで私が見なかったモノを見せてくれた。モノばかりでなく、坂田という店があることを教えてもくれた。世にブルガリアンボイスなるものがあることを教えてくれたのも、コーヒーミルはスポングだと断定してくれたのも彼である。ついでに車はルノー・キャトルがよろしいとのことだった。ブルガリアンボイスのCDとスポングは買った、坂田とキャトルには無縁であったが。

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 やがて彼は工芸店をやるといって福岡に帰っていった。その後は、たまに来る展覧会案内で遠く様子を伺うくらいだったが、今度の本を見て、----詳細な年譜がついていて、販売や展覧会ばかりでなく講演会、音楽会、学習会など様々な文化事業?を継続して行ってきたことを知った。それらの全体が即ち「くらしにあかりをともすしごと」だった。個人経営の工芸店としては目覚ましい活動であり、その積み重ねが今回の記念誌発行に至ったのだからえらいものである。(その年譜は実は本誌中になくて、いわば付録の挟み込みになっている。記念誌であるなら年譜は本の中身そのものではないか。社史や伝記に年譜が付録で挟み込んであるようなもので、どうもわからぬ。)
 本自体の内容は彼がこれまでに扱ってきたもの、好きなものの紹介(写真と文)と、折々の活動報告のような感想のような文章からなっている。紹介しているモノが広範囲、多岐にわたっているのが特徴だろう。「くらしにあかりをともしてくれる」のは決まりきったせまい範囲のモノだけではないからだ。こういう姿勢は疲れると言えば疲れるが、川口氏はそういう人である。そして当然のことながら、------目のない私が言うのもはばかられるのだが、類品中の優品が選択されているようだ。さらにまた、私にはわからない高級なモノも加わっている。添えられた文章は意を尽くしている、と思う。実のところ、いささか気取った文章で疲れるのだが、氏はそういう人である。

 なるほど世の中にはこういうものがあるのか、とあらためて感心させてくれる本である。
 モノが好きな人には楽しい本だと思うので、私情を交えて紹介しました。
 (ところが困ったことにこの本には定価が書いてない。また書名が帯にしか書いてないという不可思議な本なのである。聞いたら、定価は3,500円✚税で、書名がないことは発行者たちの意向で、印刷もれではなくなにか特別な理由があるとのことであった。)
 問合せ先は、 amaneyabook@gmail.com
(藤田邦彦)

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2021年01月17日

志賀直邦さんとの思い出

 私は、日本民藝協会の事務局に勤めていて、同時に『民藝』誌の編集実務にも携わっているので、民藝にまつわること(特に民藝運動に関わった人物についてのことが多かったと思う)でわからないことがあると、いつもたくみの志賀さんにお電話をしていた。志賀さんのお話はご存知の通り少し回り道をするが、大概のことは知っておられ、まさに民藝の生き字引のような存在であった。
 志賀さんの功績はたくさんあるが、私がとても思い出に残るのは、志賀さんの著作、ちくま学芸文庫の『民藝の歴史』についてのことだ。この本は『民藝』2013(平成25)年1月号から2016(平成28)年1月号までの36回、足かけ3年にわたって連載された「民藝運動90年の歩み 白樺の時代と、民藝美の発見、その展開」が元になっていて、連載時にはほとんど毎月まとまった文章を寄稿していただいた。時には徹夜して書き上げた回もあったそうだ。常に原稿をカバンの中にいれて持ち歩き、その都度書き加えられていたのだろう。書き上がると、どこかおかしいところがないかと、私にまで聞いてくださって、その謙虚さは見習わなければと思っている。連載が終わる頃には、少しお疲れが見えることもあった。毎月の連載を3年も続けたことは相当なストレスだったと思う。少し無理をさせてしまったのではないかと、当時のことを考えるといまも申し訳なく思うことがある。しかし、ご自身の著作が筑摩書房から刊行されることが決まった時には、どこか本当にほっとされて、またとても喜んでおられた様子が感じられて、私も嬉しかった。この本は、民藝を学びたいと思う人たちにとって必読の書だと思う。
 晩年には、何度かご自宅にお邪魔する機会があった。たくみのこと、民藝館のこと、民藝協会のこと、いわば民藝運動の3つの柱と言われるこれらのことに最後まで心配をしておられた。こんなに深くそれぞれのことに同じくらいの想いを持っている方は今後現れないだろうと思った。それほど親身になっていた。表に出すことが難しいさまざまなご苦労なども伺った。学生時代に新聞を発行していたことや、昭和20年代まで発行されていた『たくみ』を自身で復刊し編集していたこともあってか、批評的な視点を常に持ち社会情勢にも敏感であった。細かな資料も大切に保管しているようだった。たくみや民藝協会、民藝館の中心にはいつも志賀さんがいた。このことも、お話を伺った際にあらためて実感したことである。
 志賀さんはいつも私たちを引っ張ってきてくださった。誰もが志賀さんを慕い、頼りにする存在であった。うまく言葉では表現できないが、志賀さんが伝えたかったことは何だったのか、いまも反芻することがある。『民藝の歴史』のあとがきに「民藝運動は、常にその理念だけではなく、人びとのより良い暮しと未来を実現するための実体を兼ね備えた運動でした」とある。あらためて『民藝の歴史』を読み返しながら、志賀さんの想いに触れたいと思う。
 ご冥福をお祈りいたします。
村上豊隆(日本民藝協会事務局)


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posted by 東京民藝協会 at 17:14| Comment(0) | その他