2021年02月28日

志賀さんのこと

 私共たくみ工藝店の志賀直邦が九月十五日、九十才であの世に旅立ちました。まことに残念で「たくみ」にとっても、民藝運動にとっても惜しまれます。私は昭和四十四年にたくみに入社ですので、五十年以上のお付き合いでした。
 志賀家は相馬藩の重職の出のようで、お家には様々な美術品があり、ちなみに私が見せて頂いたものの一つに、千宗旦の茶杓がございました。もちろん民藝の作家の方々の作品もございましたが、それらは残念な事に殆ど火事で失ってしまったとのことです。そのような環境の家柄ですので、自然と美に対する興味が湧いていったのでしょう。
 そしてさらにうらやましいことに柳先生や浜田先生、河井先生等の民藝の先達の方々にじかに教えを受けている事です。ちなみに柳先生がたくみに小鹿田焼が入荷して見においでになった時の事を、志賀さんがお話ししてくれましたが、先生が作品をお選びになる時は、正に直観と言うか選ぶ速さは一瞬でコレ、コレと選ぶ。キズがあっても気にしないそうです。選ばれたものを改めて見ると本当に良くみえたとの事。柳先生の目の素晴らしさが伝わってきました。
 『民藝』の今年の新年号「民藝運動の文字」で芹澤_介のデザインを特集しておりますが、その中に団扇-----私共では芹澤団扇と呼んでおりますものが載っていました。初期のころは志賀さんが芹澤先生のところに打ち合わせに行っていました。柄数が少なく新しいデザインをお願いしますと毎回言ううちに、「新しいもの、新しいものと言っても簡単にできるわけではない。お前達もアイデアを出せ」と言われたそうで、志賀さんが考えたのが郷土玩具でした。
 そして志賀さんが代表取締役になってからは『たくみ』その後に『民藝の歴史』を執筆され、これらは作り手と使い手の間に立った人にしか書けない貴重な著作でした。
 民藝運動に邁進した志賀さん、ここにご冥福をお祈り致します。
(たくみ 高梨康雄)

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2021年02月27日

志賀さんへ 「お願い」

 志賀直邦さんが亡くなった。昨年の九月十五日である。年齢は九十歳だった。
 私は九月十二日に、志賀さんが社長を務めていた「たくみ」を訪ねた。そこで職員の方達から、志賀さんの具合が良くない事を聞いた。でも、脳天気な私は職員の皆さんが余りにも明るく話されるので、復活を信じて、見舞にいきたい旨を言い、その日は何事もなく家に帰った。
 それから日を重ねて、十二月九日の午後に、日本民芸館を訪ねた。そして、後輩の学芸員と四方山話をしていると、「ところで、志賀さんが亡くなられたのはご存知ですよね。」と言われた。よく聞くと、私が「たくみ」を訪ねた三日後のことだった。私は驚いた。あんなに近しくしていただいた志賀さんの死を、三か月も知らないでいたとは・・・
 葬儀は家族の方だけで、密かに行われたという。でも、新型コロナのせいとはいえ、株式会社たくみの社長であり、東京民芸協会の会長を務めていた志賀さんである。本来ならそれ相応の別れの会をして、あの世への旅立ちを、大勢で祝ってあげるべきだろう。
 私は三か月も知らなかった不明を恥じた。と、同時に、致し方なく、コロナの残酷さを呪いつつ、名号を唱えた。
 日を置かずに、東京民芸協会の藤田氏から、志賀さんの追悼文を、ブログに書いてほしいと電話が入った。私は二つ返事で、承諾した。承諾しながら、二十数年程も前に、死んだら追悼文を書く約束を、交したのを思い出した。二人はその頃、民芸の行く末をよく論じた。だからきっと、その真剣さに経緯を払ったうえでの約束だったのだろう。しかし、今はその折の議論を思い出すのに懸命な私である。
 志賀さん、不甲斐ないが、私も遠からずそちらに行きそうだ。だから、もう少し待っていて欲しい。
(尾久 彰三)

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