志賀家は相馬藩の重職の出のようで、お家には様々な美術品があり、ちなみに私が見せて頂いたものの一つに、千宗旦の茶杓がございました。もちろん民藝の作家の方々の作品もございましたが、それらは残念な事に殆ど火事で失ってしまったとのことです。そのような環境の家柄ですので、自然と美に対する興味が湧いていったのでしょう。
そしてさらにうらやましいことに柳先生や浜田先生、河井先生等の民藝の先達の方々にじかに教えを受けている事です。ちなみに柳先生がたくみに小鹿田焼が入荷して見においでになった時の事を、志賀さんがお話ししてくれましたが、先生が作品をお選びになる時は、正に直観と言うか選ぶ速さは一瞬でコレ、コレと選ぶ。キズがあっても気にしないそうです。選ばれたものを改めて見ると本当に良くみえたとの事。柳先生の目の素晴らしさが伝わってきました。
『民藝』の今年の新年号「民藝運動の文字」で芹澤_介のデザインを特集しておりますが、その中に団扇-----私共では芹澤団扇と呼んでおりますものが載っていました。初期のころは志賀さんが芹澤先生のところに打ち合わせに行っていました。柄数が少なく新しいデザインをお願いしますと毎回言ううちに、「新しいもの、新しいものと言っても簡単にできるわけではない。お前達もアイデアを出せ」と言われたそうで、志賀さんが考えたのが郷土玩具でした。
そして志賀さんが代表取締役になってからは『たくみ』その後に『民藝の歴史』を執筆され、これらは作り手と使い手の間に立った人にしか書けない貴重な著作でした。
民藝運動に邁進した志賀さん、ここにご冥福をお祈り致します。
(たくみ 高梨康雄)