2021年03月13日

志賀直邦兄を偲ぶ

 志賀直邦兄の訃報に接し、天命を全うされたのかもしれないが、民藝の事なら何でもぶつけられる最後の同志を失ったことが無念でならない。志賀さんと親しく呼び話ができるようになったのは、昭和六十二年日本民藝協会会長柳宗理先生から共に会長指名理事、常任理事を命ぜられた時からで、四歳年上の兄貴分でした。いつもニコニコのジェントルマン、そしてお話は前置から丁寧に始まる。たくみ社長の厳しさは全くない。常任理事会の時、「たくみ」の2階、時には「盛田酒造ねのひ」で話は尽きない。しかし確か平成5年から始まった「手仕事の日本展」では久野恵一君と意見が合わなかったのか愚痴をこぼされたこともあった。協会長が柳宗理先生から水尾比呂志先生となり、平成二十三年春、水尾先生も高齢化を理由に会長辞任の申し出があり、私は志賀さんが最適と推薦の許しを求めたが、「民藝運動を引っ張る日本民藝協会会長には民藝で飯を食う者がなるべきでないよ、各地協会長はあくまでお世話する立場とは違うよ」と説かれ、とりあってもらえなかった。水尾先生も志賀さんに声をかけたのかは知らないが、今までの民藝協会に一区切りをつけての会長選びを打診された。しかしその前程なく常任理事会で決議されたので、角田長三多氏、久野君と私がその場で辞任表明、、以来志賀さんと会う機会が少なくなり、全国大会での理事会に限られたのは淋しかった。
 平成二十九年松本大会での理事会で立話しをしたのが最後、「たくみ」でも会うことはなかった。
 晩年の労作「民藝の歴史」は宇賀田氏の綿密な協会の記録とは異なり、「もの」や「ひと」に直接の目で見て耳で聴いた、志賀さんではなければ書けない幅広い民藝の歴史、いつも手許にあり、今は志賀さんを偲んでいる。
合掌。
(大阪民藝協会 辻野純徳)

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2021年03月09日

パリと銀座の志賀直邦

 父が銀座たくみ社員、母が元銀座たくみ社員である自分にしてみれば、志賀さんは父の上司であり、志賀さんは僕を生まれる前からご存知で、僕にとっての志賀さんは小さい頃から知っているおじさんである。
 その中でも、志賀さんとよく会話をするようになったのは、僕が学習院大学の史学科に入学してからのことだ。学習院は白樺派を産み、白樺派が民藝を産んだ。志賀さんは白樺派の一人志賀直哉の甥である。さらに、志賀さんは慶應大学で史学を学ばれたから、歴史にも造詣が深く、民藝と歴史に並々ならぬ情熱をお持ちである。僕が学習院と歴史という領域に足を踏み入れたものだから、たくみでお会いすると志賀さんの檄が飛んだのである。
 またある時には、志賀さんがたくみの裏から志賀さんの母方のひいおじいさんに当たられる副島種臣伯爵の図録を出してきて、滔々と日本の近代史について熱く語ってくださったこともあった。そして、種臣の息子の副島道正は、昭和15年に開催される筈であった幻の東京五輪を誘致したIOC委員であり、この時のIOC委員の一人に柳宗悦の叔父で近代柔道の祖嘉納治五郎がいた。
 普通、「志賀直」までくると人は皆志賀直哉を連想するから、志賀さんは「志賀直哉の甥」という肩書きが付くことが多い。しかし、直哉の名声のみならず江戸時代の歴史に通じる者にとって、志賀家はとりわけ二宮尊徳の歴史に欠かせない家である。尊徳先生こと二宮金次郎は農村の復興に尽力し、報徳仕法という手法で困窮する武家の財政難を持ち直させることで名声を得た人物である。その尊徳の弟子となり、野馬追で有名な中村藩主相馬家の財政再建のため、尊徳の招聘に尽力したのが相馬家の家来御仕法方志賀三左衛門直道、志賀さんのひいおじいさんである。
 ここまでくると、志賀さんが民藝に生涯を捧げられたのは必然であると思えてくる。白樺派の面々と生まれた時から交流し、父方のみならず母方でも柳との縁に繋がる。そして民藝運動に導かれる。柳が民藝運動展開の拠点として銀座に創ったたくみの社長になる。幕藩や国家のみならず、昔も今も運動には資金が必要で当然民藝運動もその例に漏れない。民藝運動の御仕法方としても志賀さんは腐心された。
 これが、僕が先般往生を遂げられた志賀さんを一民藝史上の人物として、そのアイデンティティにまで遡って客観的に総括する時の印象である。
 尤も銀座の志賀さんはといえば、僕の印象に残るのは、いつもサラリーマンとは違う茶色系統のスーツに細い民藝のネクタイを合わせたスタイルで、オールバックに高そうな眼鏡をかけたジェントルマンで、僕のような小僧にまで本気で様々のお説教を吹きかけてくる神様であった。
 そういう銀座の志賀さんの凄みを改めて知り尊敬の念を抱いたのが、志賀さんと奥様にパリでご一緒させて頂いた時のことである。
 2014年の10月、柚木沙弥郎さんの展覧会がパリの国立ギメ美術館で開催され、その開会式に合わせて日本から民藝にまつわる多様な方々が結集したが、その中に志賀ご夫妻もおられた。この開会式は見事なものであったが、なぜ見事になったかというと、それは柚木沙弥郎というアーティストが凄いだけでなく、そこに集われた方々に趣深い人が多かったからである。日本各地の民藝運動の方々、民藝を愛される言語学者の泉邦寿先生ご夫妻、テリー・エリスさんご夫妻を筆頭とするビームスの方々などがそこにいらした。従って、パリでよくある僕が嫌う類の、悪趣味な日本人たちの内輪の礼賛大会のための展覧会ではなく、フランスに出して恥ずかしくもなければ、珍しく味わい深く美しい開会式になったのである。そして僕はそこにたくみ縁故者のパリ大学の大学院生として居合せたのであった。
 パリの志賀さんと元銀座たくみ社員の奥様は、そこら辺の薄っぺらの日本人観光客とは全く違った。普通日本人観光客といえば、建築や豪華絢爛なブランド店やそのショーウィンドウなど、パリの表面の雰囲気に陶酔し、細部を見ることを忘れて大はしゃぎをする。志賀さんは生き方自体が民藝だから、細部を見てから全体を見るため、目ざとく、また全体に溺れるようなこともない。民藝に携わる男は、ジャズマンのように細かく神経質であることが多く、そういう人間がまた民藝に惹かれるのであろうが、それ故に「大きい」であるとか「豪華絢爛」であるとか「きんきらきん」というような圧倒的で押し付けがましい美に感心することはなく、美に職人の細やかな実力が見えない限り心を動かさない。そしてその眼差しは何も工藝だけにとどまらない。
 三人でルーブル美術館そばのブランドのチョコレート屋に入った時、自己主張の激しいチョコの豪華絢爛なショーウィンドウの前で志賀節が炸裂した。
 「見てみなさい。こういうブランド物のチョコレートは、どこかの工場で作られているだけで、職人さんが作って、一つ一つの形や風味が少しずつ違う訳じゃない。だからつまらない。」
 と仰った。
 結局、チョコレート一つとっても、それが本場パリで名の知れたブランドであるという程度の理由で志賀さんを騙すことはできない。木喰仏に対してであろうとチョコレートに対してであろうと、志賀さんの美への視点は何一つ変わらない。民藝とともに生きるということは、視覚嗅覚触覚聴覚味覚の五感を研ぎ澄ませて生きることであり、揺るぎない審美眼や美への価値軸を持って、人間らしく生きられることなのだということを、僕は志賀さんに見せつけられたのである。
 そして、今は潰れた眉山という料理屋での一献に移った。カウンターの角に真ん中を志賀さん、左隣を奥様、右隣を僕で腰掛けた。志賀さんは酒豪ではないようだが、それでも数本は純米酒の徳利をつけ、パリでできる最大限の和食に舌鼓を打った。
 無花果の葉に料理が載せられて出てきた時、志賀さんはアダムとイヴが無花果という禁断の果実を食べたばかりに羞恥を覚え、その葉で局部を隠したという話を料理人にされた。
 そして、料理人はその話を知らなかったようで、「そうなんですか!」などと言ったから、志賀さんは少し踏み込んで聖書の創世記の補足をされた。
 志賀さんはこのように博識であり頭の回転も早いから、我々が掻い摘んだ知識で議論に臨んだり、行動に知識が伴わず無知のまま何かをすれば、容赦無く切り捨てられるか、博識の洗礼を浴びせられる。志賀さんの流儀では、料理人が無花果の葉を用の美として使うなら、無花果の葉についての知識があった上でやらないといけないのだ。
 話は民藝へと入った。印象的なお言葉をいくつか挙げる。
 
 「僕は柳と河井寛次郎の薫陶を受けた最後の人間だ」
「よく学者が民藝を研究したいと来た時に言ってやるが、考える前に手で触って目で見て感じなきゃ」
 「銀座たくみでは大義のために身を切る武士の経営をした」
 
 こうして、「柳が」「河井寛次郎が」と、今や歴史上の人物となられたお二人に触れて薫陶を受けた日々を映画のワンシーンのように淀みなくお教え下さり、器にとにかく触れるよう僕に熱心に説かれ、たくみにおいて志賀さんがされたという武士的経営の話や武家に関するお話を熱くされた。
 志賀さんには、柳や河井寛次郎の最後の弟子としての自負があった。そして、志賀さん自体が博識の人間でいらしたが、行動を伴わない知識馬鹿を誰よりも嫌った。また、志賀さんは武士としての自尊心を持っていた。
 斯くある志賀さんの民藝運動家としての集大成は、2016年初版の『民藝の歴史』である。この書物は、志賀さんのご経験と人生と価値観が詰まった民藝の歴史書であり、表紙は柚木沙弥郎さんである。そして、志賀さんはパリにこの著作が収められることを望まれ、僕に託された。
 書物というものは、一度読めば当分本棚の飾り物となる。しかし、江戸時代の名著が貸し借りされて写本の形で人々に共有されて広まっていったように、今でも良い書物は人々に広く読まれ、少しでも多くの人に共有されなくてはならない。フランスにありては、志賀さんのご著作は、日本語の読める人々の図書館に架かることが一番である。僕は、志賀さんの『民藝の歴史』と泉先生から個人的に頂いた民藝の話題含むエッセイやご著作を、これからの永きに渡り、より多くのパリ大学日本学科の生徒に読んで欲しくて、学科に付随する図書館に寄贈した。
 さて、僕がパリに長く暮らして思ったことは、フランス人にはハイソサイエティな人たちを中心に、日本の本来の美や民藝、用の美を理解する才を持った人間が少なくないことであり、それは、コロナ禍の前は銀座たくみにフランス人の客がずば抜けて多かったことからも、ニッカウヰスキーを始めとする日本ウヰスキーを再評価したのがフランス人であることからも伺える。
 そして、パリからなら、日本の民藝を世界の民藝の理解者と連帯して新しき民藝運動として展開できるという自信があった僕は(今でもある)、日本人は何につけてもそうであるが、民藝運動も然り、世界的に展開するポテンシャルがあるのに展開しようともしないことに憤りを覚え、「志賀さんも武士なら、僕にたくみから食い扶持を出し、パリで民藝運動をやらせてくれ」と手紙で送り付けたこともあるが、今のところ実現していない。
 こうして銀座とパリで志賀さんに学び、最後の柳の弟子であり、また存在自体が白樺派である志賀さんを喪った今、しみじみ民藝に集う一人として考えることがある。それは、今後の民藝運動は如何にという思索である。
 この思索は、志賀さんに次にお会いした際にぶつける気でいた。間違いなくいつものように、たくみの2階で「あのね、」いう言葉とともに始まる2時間を越すお説教を食らうことになった筈なのだが、それこそ望むところで、志賀さんとどうしても議論したいことであった。
 今となっては叶わないのだが、人種問題や格差の拡大がいよいよ著しく、人心がすさび暴動がそこかしこに起き、他方ブルジョワが民藝的なものに惹かれるフランス社会を体験したからこそ感じる民藝そのものの矛盾と、その矛盾があるからこそ広がる民藝の可能性、そして、民藝人のオブリージュというものを、作り手でもなく、売り手でもなく、しかし民藝が純粋に好きだという僕が、志賀さんが最も嫌う一知識馬鹿として問うてみたい。
 僕が思う民藝の矛盾とは、目下フランスにおける手仕事と有機農法礼賛ブームの矛盾と同様、そこに美や良質性を見出している人間たちが民衆でないということにある。
 民藝は創設者柳宗悦とそれを思想面で支えた白樺派の面々という表に出てきている有名人のみならず、白樺派や民藝運動のパトロンであった熊本藩侯細川護立など、学習院を中心とする上級下級入り乱れた公家武家の間に生まれた上流人の哲学であることは間違いがない。従って、日本の真に上流の方々の洗練された審美眼と落ち着いた思考があって初めて創造できた実践的哲学であったと同時に、民衆的工藝と謳い民衆を扱いながら、民衆の間に出でた運動ではないという矛盾を抱える。こうしたことは、目下オーガニックやアルティザナルという農民や職人による民衆の手仕事に傾倒するフランス人たちがブルジョワであることと構造的には同じである。また、柳同様上流人でありジェントルマンの志賀さんが、民衆出でないのに、民衆の工藝に美を見出し、それを愛でることも、上流の落ち着いた価値観と生活があってこそ成立する思想と行動と見える。
 民藝や手仕事の愛好者も傾向として同じである。パリの街角の手仕事の店にも、銀座たくみにも民藝館にも、この格差社会にありて根っからの民衆は来ないし来れない。少しはゆとりのある人たち以上が顧客である。民藝もフランスの民藝的なものも全て、民衆なき上流人や通人の嗜みでしかない。
 しかし、そんな民藝に追い風が吹いていると強く感じる。
 21世紀に入り、大量生産大量消費とデジタル化に代表される近代社会が行き詰まり、人々の疲弊は最高潮に達したが、他方若者たちは物欲や過度な金欲を放棄し、ものを持たないミニマリズムとアナログへと回帰した。
 そこにコロナ禍が到来し、ソーシャルディスタンスの呼び声と共に、人々が引き剥がされ、社会のオンライン化やデジタル化が格段と進んだが、こうした動きに反し、人々は「ほっこり」などという新たな単語と共に人の温もりを求めている。
 これは日本のみならずフランスでも同じであり、近代列強国の社会に生きる人なら得てして同じようだ。
 大量に物を生産し消費し、死ぬほど労働して経済力をひけらかすために物欲を増進させるという近代の価値観が崩れ去り、人や物に触れる温かみが希求される今、民藝運動には千載一遇の世を導く機会が回ってきている。
 チープでキッチュな安かろう悪かろうの近代工業製品から、割りに安価ながら愛着を持って一生使える持続可能な手仕事の物へと、人間味の溢れた社会や人間らしい価値観を取り戻すために、民藝運動が思想家と作り手、発信拠点としての民藝館と民藝店の総体としてやるべきことは多い。民藝は、近代的な俗っぽさから人間が解放され、本物の人間たちの力や美を取り戻すために最良の運動だと信じる。そして、民藝で社会を導くことが民藝人のオブリージュだと思うのである。
 また、民藝の真髄は日本人にしか分からないというものではないから、民藝運動は日本発の運動として世界に出るべきであり、日本人に拘らず世界中の民藝的な感覚や価値の分かる人々と連携し、グローバルにモダンを追求し、そうすることで世界中の各文明の人間たちが共通して持つ手仕事の伝統や、機械ではなく人間だからできる文化を守らなくてはならない。
 そこで肝になるのが、民藝運動最大の特質である上品さであろう。
 アメリカやヨーロッパの極右旋風にせよ、極左の運動にせよ、社会運動が民衆の中に出でた場合は、より良い社会を標榜しているにも関わらず、決まって敵を作ることを求め、攻撃的で過激で下品であり、社会の分断を招くのが常であるが、民藝運動はそうした社会運動ではない。
 その理由は、民藝運動が上流上品な人たちが生み出してくれた民衆の外にあるものだからに他ならない。その矛盾を自覚し、民衆への暖かなまなざしと共に、社会を纏め、近代社会よりましなポストモダンをもたらすような、優雅且つ力ある民藝運動が今こそ展開されるべきだと思う。
 母方のおじいさま副島道正伯爵が誘致された幻の東京五輪から80年後、またしても幻の東京五輪となった年に、必然として民藝の申し子となられた柳の最後の弟子の民藝運動家志賀直邦さんが、これまた必然の年周りに往生を遂げられた。前回の中止理由は戦争であったが、今回はコロナという疫病であった。双方とも近代的な災厄である。他方、民藝というものは、人間の手仕事の力とそこにしか無い美を見出すものであるから、人間の力を凌駕した力に人間が振り回される近代とは対極に位置する。
 民藝は可能性で溢れている。名も無い職人さんたちの大きな力を背景に、柳先生たちが創始され、志賀さんたちが受け継いでこられたこの贈り物を、近代に終止符を打ち、伝統的且つより人間的な未来を開くために生かさない手はない。

 志賀さんの最晩年の民藝運動への期待はこの通りである。

 「「民藝」というものが、科学技術の限りない進歩によって、ロボットや工業製品にとって代わられると予測する人たちが多いのですが、私はそうは思いません。第一次、第二次の世界大戦、その前後の地域紛争や飢饉、災害がどれほどの大きな損害を人々に与えたか。さらに世界が、地球自体が病んできていることに私たちは気付かなければなりません。今や世界は一国の平和と繁栄、あるいは、一身の心や暮らしの安寧をのみ望む時代ではないのです。私は、それらの難問をひも解く糸口として、柳宗悦による実践的哲学、「民藝運動」があると考えたいのです。」

 「若い人たちの熱意と行動力も結集して、明るく希望に満ちた活動が展開されることを熱望しています。」
(志賀直邦『民藝の歴史』)


(パリ大学博士課程七年 世川祐多)


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2021年03月02日

追想 株式会社たくみ 社長 志賀直邦様

 まだ 信じられないでおります。昨年の9月15日にご逝去されたと後で聞かされ 驚愕しました。
 ここに謹んでお悔やみを申し上げ 心からご冥福をお祈りいたします。
 私が 昭和40年に独立したのと同時期に外村吉之介氏によって 熊本国際民藝館と熊本県民藝協会が設立されました。開館に向けての準備をされている時、縁あってお手伝いをすることとなり、オープン前に民藝協会に入会をしました。その3年後から民藝館展にも出品をするようになりました。窯を荒尾市府本に移し窯名を「小代焼ふもと窯」に改め本格的に民陶の窯として出発をしました。
 館展には積極的に出品して 講評会にもその年から毎年参加しました。また講評会が終わった後 「たくみ」に寄り各地の民藝の品々を見せて頂き帰っておりました。志賀直邦社長と挨拶を交わし話しができるようになったのは昭和45、6年ごろからと思います。たくみの社長と聞くだけで 尻込みしておりましたが、実際お話しをするととても優しく親身になって話を聞いてもらい、民藝全般においても懇切丁寧に解説していただいておりました。まさに生き字引的な存在の志賀さんでした。
 銀座にあります「銀座くまもと館」で熊本県内の窯元が展示会を開催したおり、志賀さんに一時間ほど講演をお願いしたこともありました。
 近年では 筑摩書房から発行されました著書 『民藝の歴史』はわかりやすく多岐にわたって解説された民藝の辞書であり、待ち望んでいた一冊です。

井上さん写真.jpg

 志賀さんと最後にお会いしたのは 一昨年の秋日本民藝協会の常任理事会の帰りに銀座たくみに立ち寄った時だったと記憶しております。本当に寂しくなりました。
親しさのあまり志賀さんと書かせていただきましたことをお許しください。
 長い間ありがとうございました。どうかゆっくりおやすみください。合掌

日本民藝協会副会長 井上泰秋

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