楊三郎(1907-1995)は、日本統治時代の台北生まれの台湾人画家である。十代で絵を志し、内地とフランスに留学して西洋画の技術を磨いたのち、仲間と共に美術団体「台陽美術協会」を設立した台湾美術界の功労者で、晩年に至るまで精力的に作品を描き続けた。

銀座の泰明画廊で開催された楊三郎展。ヨーロッパの風景画を中心に、戦後の作品が多く出展されていた。
昭和40年代前半に『民芸手帖』を読まれていた方は、楊三郎氏のお名前に憶えがあるかもしれない。実は楊画伯は、協会ともご縁のある人物なのだ。
東京民藝協会では、発足当初より見学旅行がたびたび開催されていた。協会の白崎俊次氏による事前調査を経て構成された見学内容の豊かさ(と濃密なスケジュール)には定評があり、1960年代後半から80年代初めにかけては、台湾旅行も何度か催行されている。

初回の台湾旅行を特集した『民芸手帖』(1968年2月号)
初回の台湾旅行は1967年11月で、50名ほどが参加した。キャンセル待ちが出るほどの人気だったという。戦前に柳宗悦が巡った調査地を組み込んだ見学コースは、白崎氏が関係者の協力を得て練り上げたもので、柳訪台時の痕跡が今より色濃く残っていた54年前、参加者を存分に楽しませたに違いない。
しかしながら、柳が1か月かけて見たものを1週間に凝縮した見学計画は過密そのもので、「そこにうまいものが湯気を立てていても、ゆっくりパクつけない」こととなる。そして一日の終わりには参加者を疲労が襲う。
バスの窓からみた屋台や、食べもの屋の店先でつくっているホカホカの揚げものや、麺類が食べたくて、そこに台湾本来の庶民の味があるはずだ、などとうずうずするのだが、ホテルについてタクシーを飛ばそうにも、なんせくたびれて、体がもうトットコとはいうことをきかなくなっている。無念という外はなかった。(佐々木芳人「食在台湾」(一)『民芸手帖』1969年5月)
これを書いた佐々木芳人氏は、食への未練が断ちがたく、帰国を一日延ばした参加者である。そこで救世主となったのが、知人に紹介された楊三郎画伯であった。佐々木氏は、「大変なグールマン」の楊氏にいざなわれて美食の数々を堪能し、旅の最後にようやく満足(腹?)を得たのだった。

その日に楊氏が案内した店のひとつが、現在も営業する雲南料理の人和園。
「鶏油碗豆(スナップえんどうのスープ)」は「過橋麺」(←写真見当たらず・・)と並ぶ看板料理のひとつ。
戦後国民党と共に渡台した外省人によって中国各地の食文化が持ち込まれ、台北の街には北京、広東、四川、上海、浙江、山西、湖南、雲南等々さまざまなレストランが林立していた。その多様性に驚いた佐々木氏は、帰国後あらためて美食探訪のための個人旅行を計画し、1969年1月、台湾へ再び赴いた。台北以外の土地も含めた12日間の食べ歩きスケジュールを組んで案内してくれたのは、「万事、まかせてもらいたい」と笑う楊画伯である。
旅の成果は、のちに佐々木氏が『民芸手帖』に「台湾・食べある考 食在台湾」(1969年5月〜70年5月、以下「食在台湾」)を連載し、材料やレシピ、写真、手書きの地図も交えて余すところなくレポートしている。先日逝去された漫画家のサトウサンペイ氏も3日遅れで合流し、旅を賑やかなものにした。
佐々木氏は後になって、楊氏が組み立てたスケジュールには「戦後渡台の中国料理」と「戦前からの土着料理」がうまく按排され、短期間で台湾の食を包括的に経験させるための並々ならぬ配慮があることに気づく。そんな楊氏が案内するのは高級店のみならず、路地裏の小さな店や道端の屋台、果物屋、市場の奥までとにかく幅広い。台湾の美味しいものは、街の至るところに存在しているのである。


楊画伯推薦の肉粽の店・再發號(台南)。今や「百年老店」となっている。拳二つ分ほどある具だくさんの粽は、「戦前からの土着料理」に属する台南伝統の味。
台湾じゅうの美食の所在を熟知しているだけでも見事だが、メニューを睨んで注文する品を厳選し、来歴や材料や製法を解説し、次にもまだ行く店があるからと、箸の止まらぬ面々にやんわりストップをかけ・・・と、楊氏のアテンドぶりは実に素晴らしい。毎朝宿まで迎えに現れ、数日の下準備を要する超高級食材のスープを自宅でふるまい、佐々木氏の所望する季節外れの食材の調達に奔走する楊氏を、読んでいて好きにならない人がいるだろうか。

「食在台湾」第1回目に掲載された楊氏ご夫妻(『民芸手帖』1969年5月号)。楊画伯の写真はどれも穏やかな笑顔が印象的。
しかし歴史を遡ると、そんな「グールマン画伯」の笑顔の奥も垣間見える。
戦後、日本による統治の終焉に続いて国民党軍が渡来し、台湾の政治体制は激変した。日本式の教養を土台にキャリアを築いてきた楊氏は、40歳を前にして環境の劇的な転換に直面したのである。
今回の楊三郎展を報じた新聞記事(『毎日新聞』2021年7月1日夕刊)には、二・二八事件(1947年)の知識人弾圧で、楊氏も銃殺のため連行されたが、途中で逃亡して命拾いしたこと、その後「失望」という作品で政権への不満を示したことが記されていた。
佐々木氏との旅は、それから約20年後、楊氏が60代に入った頃のことである。変貌する社会のなかで、失意と反発を内包しつつも粛々と暮らしを営むしかなかった楊氏が、台湾に根を下ろしてゆく「戦後渡台の中国料理」をもつぶさに味わい尽くし、「グールマン」たる自らの味覚を以て品定めしているところは何とも逞しい。


楊氏の自宅(現・楊三郎美術館)のすぐ傍で1955年から営業している世界豆漿大王。中国北方式の朝食メニューの専門店。小麦粉をざっくり揚げた油條(上)は、渡仏経験豊かな楊氏曰く「台湾のクロワッサン」。下は油條を入れた鹹豆漿(豆乳スープ)。戦後に流入した食文化も、今や台湾の朝食の定番として定着した。
佐々木氏の「食在台湾」への反響は大きく、連載第3回目のページの片隅には、協会からのこんな告知が出ている。
第二次台湾民芸旅行
台湾の民芸とデザイン(※)・食在台湾の二本の台湾記事で、台湾熱が発生し大阪から電話で台湾民芸旅行を計画したらと、また東京勢からもう一度との声が上がっている。参加希望の方はお申し出ください。計画致します。(※伊藤清忠「台湾の民芸とデザイン」のこと。 1969年6、7月号掲載)
軽妙かつ詳細に綴られる佐々木氏の「食在台湾」は好評で、連載は第13回まで続き、協会の二回目以降の台湾旅行もその後実際に催行された。こうした「台湾熱」発生の一因が「食在台湾」だというならば、その旅を全面的に支えた楊三郎画伯は、紛れもなくその火付け役の一人なのである。
「食在台湾」は、今となっては半世紀前の台湾社会を記録した貴重な現代史資料である。ただそれ以上に、本来の美食案内としての役割も失われていない。現在まで続いている店も意外に多く、連載時には生まれていなかった私も、台湾へ行くたび「食在台湾」のお店を探して当時の追体験を楽しんでいる。再び台湾へ渡航できる日が早く来てほしいものだ。
(天野)