6月11日(土)、民藝館特別展「仏教絵画ー浄土信仰の絵画と柳宗悦」を見学した。展示担当の学芸員の白土さんが案内をして下さった。白土さんありがとうございました。参加者は少なくて7人。
大展示室のガラスケースに並ぶ軸はいずれも立派なものである。白土さんによれば、これだけ揃ったことはこれまでなかったという。なぜなら、どの作も裸で吊るしておけるようなものではなくて、昨年の模様替えでケースができたからとのこと。
これらの大部分は、柳の最晩年の蒐集である。柳は、蒐集したものを比較的はやく紹介し、それを手がかりに民藝論を深化させてきたのだが、残念ながらこれらの絵画についてはそれをする時間がなかったようだ、というのが白土さんのお話であった。
この展示を最初見たとき、柳はこういうものをこうも買っているのかと驚いた。こういう古画は、その辺に落っこちているような代物ではないだろう。白土さんに質問したら、当時、昭和30年ころは戦後の混乱期でこういうものが世間に流出することが多かったので蒐集できたのではないか、という。それにしても安いものではない。展示に合わせて『日本民藝館所蔵 仏教絵画』という図録が発行されていて、この中に柳執筆の「種子阿弥陀三尊来迎繍画の入手の由来」という文が載っている。1960年(昭和35年)東京美術倶楽部売立てで、13万円で落札した、その後の金策を含めて一部始終を書いている。これが現在の値段だとどうだろう、仮に10倍として130万円である。「私は今迄何度も機を逸した苦がい経験をもつので、今度の幸運を大変有難く感謝した」とも書いており、柳は金策をしてはこういうものを買っていたということになる。落札し損ねた古画にどんなものがあったかがわかれば、柳の指向がさらに明らかになるだろう。
柳が最晩年に、出自において明らかに民衆的とは言い難いこれらの絵画を収集したという事をどう考えたらいいだろう。結局柳は出自、来歴、世の評価、分野、用不用など一切関係なく、直観で見出した美しいものを収集した。河井寛次郎が「美の正体とは ありとあらゆる物と事の中から見つけ出した喜」と言っているが、まさしくそれであった。とすると、柳や河井は、なにを美とするかという点において革命的な耽美主義者と言ってよく、民藝の主張はその一表出だったのではないか、と思えてくる。が、これ以上のことを考える能力がないのでここまで。
(藤田邦彦)
posted by 東京民藝協会 at 20:02|
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