その道々、増田町の織田兵太郎さん(けら作りの世話人)を訪ねたときのこと。招かれた座敷に一枚の色紙が掛けられていた。
着物姿の男女が足並みを揃えて踊っているスケッチのような絵に「秋田音頭 美男美女の花ざかり この句は俳句に似たれど俳句に非ず 草田男」と添えられている。志賀さんが「中村草田男ですね」と尋ねると、織田さんは「草田男先生が増田を訪ねたとき当地の郷土芸能を披露した。そのとき書いてもらったものだ」「志賀先生は草田男先生をご存じですか」と尋ね返したのだった。
志賀さんは高校時代、文芸部に所属していた。その顧問が中村草田男だった。あるとき草田男から「部に名前をつけてはどうか」と提案され、最初につけた名前が「井の中の蛙」だった。草田男は憤慨してその名を差し戻した。志賀さんは諮って今度は「二十一世紀」と名付けた。草田男は大いに喜んだという。
わたしはこの話を聞いて、戦後間もないその時代に、十七歳の志賀少年が使った言葉として二十一世紀という言葉を心に残した。
平成八年六月、志賀さんは入院中の相川さん(当時秋田県民藝協会会長)を見舞いに秋田を訪ねた。二度目の脳梗塞で倒れた相川さんは郊外の病院の一室で両手をベッドの支柱に包帯で拘束されていた。それを見た志賀さんは真っ先に担当医に頼んで包帯を解いてもらい、ベッドの背を立てて相川さんの話に耳を傾けた。
見舞いを終えた帰りの車中、わたしは志賀さんから「今日の相川さんの話を『民藝の秋田』に書き残してほしい」と下命を受けた。
その翌年、『民藝の秋田』第二十二号発行を目標に、わたしは相川栄三郎会長の名前で巻頭文を書いた。題名は「二十一世紀へ」。
誰かの名前で文を書くのは初めてだったが、相川さんのことゆえ日ごろ聞いていたことを並べていくうちに何とか形が整った。最後に、濱田庄司が秋田県民藝協会に残した言葉を借りて「その時代の民藝とは、作った人の心、使う人の心の密度の深さを示す尺度となろう」と結び、平成九年八月に発行した。
志賀さんは大いに喜んでくれた。
このたび藤田さんから追悼文の依頼をもらい、こんな自慢のような話は趣意外れと思ったが、遠くなりにける志賀さんの思い出として書くことにした。
(秋田県民藝協会 三浦正宏)

「角館の居酒屋「安吾」にて」