2019年03月22日

1月例会 民藝館特別展「柳宗悦の直観」見学

 間が開いてしまったが、1月26日㈯に民藝館見学の例会をやった。民藝館の特別展示は、「柳宗悦の直観」というもので、文字通りに受け取れば、「勝手に見てくれ」ということである。これで館に解説をお願いするのはどうかとも思ったが、担当の月森さんから「説明を一切しない展覧会です。通常のご説明はできないかもしれません。ご覧いただいた後に少しお話をさせていただきます」というご返事をいただいた。人が集まるかどうか心配だったが、10人以上の方が来て下さったし、会員以外のひとも加わって下さった。

 雑誌「民藝」1月号はこの特別展の特集である。5ページの巻頭で、「直観」を理解することの難しさが指摘されている。これによると直観は「直感という身体感覚にのみ基づいた私的な判断と混同されやすい」加えて「出自の異なる仏典のナントカという言葉と西洋哲学のナントカという言葉の訳語として区別なく使われている」(ナントカはアルファベットでないのでここに書けない)のだそうだ。
 なんのことかわからないのだが、さらに佐藤光氏が「直観とは何だろうか」(p11〜)で、《ブレイクが「直観」という単語を全くと言っていいほど使わなかったにもかかわらず、柳は『ヰイリアム・ブレーク』で「直観」という言葉を多用した》このころの柳は《「直観」をまだ概念でとらえていた、とは言えないだろうか》と書かれている。そうだとすると、当初柳はブレイクに依拠しながら一部曲解しつつ直観を説いた、と読める。で、いよいよわからない。------オレの脳で柳の思考過程を辿り理解しようなんてことは無理であるから当然だが。

 ところで「直観で見ろ」ということを言った人は柳ばかりではない。こんな文章があった。《見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、ぼくらが野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それはすみれの花だとわかる。何だ、すみれの花か、と思った瞬間に、ぼくらはもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。ぼくらは心の中でお喋りをしたのです。すみれの花という言葉が、ぼくらの心のうちに這入って来れば、ぼくらは、もう眼を閉じるのです。すみれの花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の感じを、そのまま、持ち続け、花を黙ったまま見続けていれば、花は僕らに、かって見たこともなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。》この文章、小林秀雄の『美を求める心』の一節だが、いまでも読むたびに感心する。そして、この展示のことを知ったとき、まず思ったのがこれであった。-----柳の何らかの文を思い浮かべるべきだろうが、あまり読んでいないのでわからない。

 さて展示はたとえてみると和洋中飛び切りの料理の食べ放題といった趣で、全室見終わったら満腹という感じであった。我々は、いや私はこういう展示をいわば無秩序としてしか感受できないのである。「展示はさぞ難しかったでしょうね」と月森さんにお聞きしたら、そうでもなかったというご返事。月森さんはご自身のなかに美の秩序があってそれに従った、だから難しくなかったのだろうか。
 ともあれこのように説明のない展示は、素人からすると不安なものであり、特に気にかかるものについては何か知りたくもなる。これについて月森さんは、知ろうとすることを否定するものではない、と何度もおっしゃっていた。ただし、今回はただ見て下さい、と。であるから我々はこの試みを受け入れて、黙って見るべきだろう。先の文章で小林は《それほど、黙って物を見るという事は難しいことです》とも書いている。
(藤田)

posted by 東京民藝協会 at 15:26| Comment(0) | 例会
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