苗代川やその周辺のいわゆる帰化人陶工が差別を受けてきたということは、これまでにも聞いていた。他方、400年前の事柄がいまだに尾を引いているということは信じがたくもあった。だがこの映画で15代は、差別が依然として残り、氏を、苗代川の人々を苦しめてきたと言う。ふつう400年も経てば大集団の中の小集団は吸収されてなくなってしまうものと思うが、この苗代川はそうではなかった。人々は連行されてきた当時から決まった場所に閉じ込められ、朝鮮風の生活を保つことを強制された。薩摩藩にとっては、朝鮮との密貿易のためにも、また贈答品として重要な白薩摩の生産地、朝鮮通詞の供給地として囲い込んでおく必要があった。つまり苗代川は差別を保存する仕組みのもとで400年存続させられたという実に悲劇的な特殊な小集団であった。沈家はさらに、その小集団の有力者、リーダーであったから、一般の住民とはまた異なる困難と葛藤を抱えたであろう。
明治維新後は藩の庇護がなくなり、自分たちの選良意識の根拠をも失って、いわばむき出しの差別に対面することとなった。野間吉夫が『苗代川』(東峰書房刊)で、柳の九州講演旅行の折のこととして次のように書いている。〈普通ならまあまあといって部屋に通してお茶の一ぱいもふるまってやるのに、ここの人たちはいまだに陶工たちを高麗人の子孫として卑下しているような気がしてならなかった。〉これが昭和27年(1952)のことである。
井上和枝「朝鮮人村落「苗代川」の日本化と解体」(『薩摩・朝鮮陶工村の四百年』岩波書店刊 所収)という論文では、2013年の調査において〈朝鮮式「姓」を記す墓は、表面を削って名前をわからなくして家門の墓地の中に、または林の中に複数の姓の墓がまとめて置かれている〉という悲しい有様が報告されている。
さらに言うと、司馬遼太郎の小説に『故郷忘じがたく候』というものがある。この小説によって苗代川と沈寿官家が世の中に広く知られることになるのだが、地元から、これで差別が表ざたになって迷惑だという反発が相当あったといわれる。
苗代川は陶業地として隆盛した時期はあるものの、ことに戦後は衰退の途をたどり、昭和28年(1953)、この年は鮫島佐太郎の「黒ちょか」がニューヨークの世界民芸展に一等入賞した年なのだが、そのころには黒物を作る業者が半農半陶の10余人、沈寿官窯が白薩摩を守るただ一軒の窯元になっていた。(姜魏堂『秘匿 薩摩の壺屋』による。ただし、『工藝』41の水谷良一「苗代川襍考」では、〈四つの白物の窯と、七つの黒物の窯とがある〉) 多くの住民は差別から逃れるために流失し、苗代川という地名も忌避されて美山に代わった。住民の朝鮮式姓もほぼすべてが日本式氏に改められた。沈家も14代の時に大迫姓に変わっている。
15代は、前掲の『薩摩・朝鮮陶工村の四百年』のなかのインタビューで語っている。〈私は、本当のことを言うとここに住みたくなかった。たくさんの人がこの村を捨てて出ていったように、私もこの家に生まれてなかったら、多分出ていったと思うんです。(中略)私は高校時代から単身東京で下宿生活をしていて、たまに帰ってくるとき、たまらなく重いんですよ。鹿児島の駅、伊集院の駅に近づくにつれてだんだん重〜い感じになってくるんです。だけれども、それだからこそ逆に捨てきれない思いがあったんです。おそらく父もそうですし、祖父もそうでしょう。曾祖父の時代は明治ですからそういうこともなかったようですがね。そんなことを考えると、ただ暗いだとか、何か重たいだとかいう理由で家業を継ぐのを断れるのかなと思ったときに、断り切れなかった。〉
15代は大学卒業後修行を開始、京都、イタリア、韓国で学び、韓国ではオンギを作る窯場で働いた。今はどうか知らないが、韓国では焼きものづくりは社会の下層民が携わる仕事と考えられており、日本の窯元のお坊ちゃんがそのような場所に飛び込んだのである。朝は3時から仕事して、夕方飯を食う時は箸を持つ力さえ出せないような過酷な労働に従ったという。映画の中でオンギの窯元は、15代のことを「韓国人が3年かかる仕事を1年でやったすごい男」だと語っている。
帰国後実家に戻って家業を継ぐことになるのだが、ここに思ってもみない苦労が加わる。それは父14代沈寿官のいじめで、それがためにうつ病になってしまったと15代は告白する。母が死んだとき、15代は父に向って「俺たちの確執が母を早死にさせてしまったのではないか」と言ったという。なぜ父は子をいじめたのか、いじめなくてはならなかったのか、映画ではそれ以上の説明がない。
上で触れた『故郷-----』、そこで伝えられた悲劇の歴史、窯場のたたずまい、ひげの立派な風貌、韓国名誉総領事などの栄誉、それらが相まって14代は伝説的な人物となった。ただここで一つ足りないものがあった。『故郷-----』でなぜか触れられていないのだが、14代は大学卒業後30代半ばまで東京で代議士の秘書をしていたらしい。この間本格的な陶芸の修業はしていなかったのではないだろうか。窯元であるから必ずしも実技は要求されないはずだが、このことが引け目となって子の成長を喜べなかった、というのが私の推測、いや邪推か?、である。-----他人の家の問題についてとやかく言うことは失礼千万ではあるが。
ところで、柳は苗代川について次のように書いている。〈明治までは特殊な部落であって雑婚を堅く封じられた。それがため幸いにも純粋な血が保たれたのである。この事は品物の血をも清くしたと私は思う。村は挙げて鮮祖檀君を今も祠る。豊公の戦役この方、幾百の陶工が海を越え、土を追って居を卜したが、その中でこの苗代川ほど歴史を固く守った所はなくまたここほど高麗人の今も集団する土地はない。〉(『工藝』41号 「苗代川の黒物」)
これを読んで、「幸いにも」はないよな、と思わずにはいられない。柳にはこの苗代川の人々に対して悪意も蔑視もないようだが、その人々が現実に受けている差別には無関心、あるいは楽観的である。苗代川の人と暮らしには美しいものを創造する力があるのだから、差別を跳ね返して誇り高く生きればいいじゃないか、と言っているようだ。こういう論調はたとえば琉球方言論争にもみられたと思う。白樺派の人たちの特権意識や自己肯定を、苗代川や琉球の人々に単純に反映させたらこういう見方も成立するのだろう。そんなことが実際に可能かどうかは甚だ疑問だが。
映画では最後のほうで、15代沈寿官が現在の考え方、心境を語る。韓国は父祖の国、日本は母の国でありどちらかを選択するのではない、その両者に架橋する存在、それが自分というものなんだ。日本人であるとかないとかは大した問題ではない、自らを一個の人類に仕立て上げていく、それが自分と一族の課題なんだと(正確な表現ではないが)。
映画の内容としては、余分なところがあったり足りないとことがあったりだが、15代の顔と話し方を見るだけで見る価値のある映画であった。
(藤田邦彦)
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