他方、民藝史上では馴染みがないが、確かに柳宗理らと交流があり、ペリアンの友人でもあった人物に松平斉光男爵がいる。昭和5年にパリ大学に留学し、昭和11年に博士論文「Les fêtes saisonnières au Japon (Province de Mikawa) : étude descriptive et sociologique」(「日本の季節の祭礼(三河地方) : 記述的・社会学的研究)」)を提出しパリ大学の文学博士号を取得する傍ら、昭和13年には画家として「Au coin de la rue (街角にて)」をサロン・ドートンヌに出品した斉光は、学者でもありアーティストでもあった。
その頃の日本政府は、昭和4年の世界恐慌以来の不経済の脱却を、貿易による外貨獲得にも求め、昭和12年商工省貿易局を外局化して拡充し、貿易品としての工芸品の輸出を促進すべく外国人デザイナーの招聘を模索していた。昭和15年初頭、この件は宗悦の理解者である貿易局施設課長水谷良一から宗理へ、宗理からすでに日本に帰国していた坂倉へと相談が行き、坂倉がペリアンを推挙し、商工省と島屋を代表して棟方志功が認めた8メートルの書簡がペリアンへ贈られた。坂倉のフランス語文を志功が描いた、筆のフランス語による賞賛の文句と墨絵に口説き落とされたペリアンは、商工省の輸出工芸指導顧問としての来日を受諾した。
昭和15年6月15日、マルセイユから日本郵船の白山丸が出帆し、一等客室の旅客としてペリアンは日本へ2ヶ月の船旅に出た。出帆の前日には、パリにドイツ軍が入城し、翌日には、フランス首相に就いたペタン元帥がドイツに降伏を申し入れるという時であり、岡本太郎や藤田嗣治も乗っていた日本への最後の帰還船でもあった。
船上でペリアンが写るツーショット写真の男性が斉光男爵その人である。ペリアンの斉光を始めとする日本人との交友関係の研究が俟たれるが、この二人は気が合ったようで、ペリアンは斉光との邂逅を「重要となる出会い」と自叙伝に記している。
ペリアンと斉光は東京で再会し、ペリアンの職務に関しては、昭和15年11月12日の仙台の工芸指導所東北支所でのペリアン座談会の相手は斉光であり、12月19日の巣鴨の工芸指導所のペリアン訪問、同23日の座談会は斉光・宗理の同道であった。この座談会では『工芸ニュース』に「通訳は松平成光〔ママ 斉光〕氏を煩はした事を附記し、御好意を陳謝する次第である。」と書かれており、斉光が好意で通訳をしてあげたようである。
斉光は、昭和17年1月には、ペリアンが前月のインドシナでの展示会設営にハノイへ向かってのち台湾に向かい、戦争の影響で足止めを喰らったため、速やかに日本に戻れるよう皇室に働きかけをもし、坂倉らと出迎えにも行っている。
ペリアンはその後日本が進駐した南部フランス領インドシナのダラットで終戦を迎えた後、日本の敗戦とともにフランスからの独立を目指してベトナム人たちの反乱が起きるのを横目に、昭和21年2月に母国行きの引き揚げ船に乗った。
帰国後日本の友人たちを案じるペリアンは、昭和23年5月に坂倉へ宛て手紙を認めた。宛先は坂倉であるが、文面の宛名は「親愛なる友人たち」と書いてあり、気に掛ける人物の中に、文化学院創設者西村伊作娘ヨネ・宗悦・宗理らと斉光が入っている。
戦後ペリアンは昭和28年に再来日を果たしてから晩年まで来日を重ねた。その時にどういう民藝界の人々や、場所を訪ねたのであろうか。
日本と民藝を愛したペリアンへの興味は尽きない。
シャルロット=ペリアン(北代美和子訳)『シャルロット・ペリアン自伝』、みすず書房、2009
シャルロット・ペリアンと日本研究会『シャルロット・ペリアンと日本』、鹿島出版会、2011
工業技術院産業工芸試験所『工芸ニュース』10(4)、丸善、1941
(世川祐多)
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