2025年05月22日

「株式会社まちづくり山上」を訪ねて──暮らしに根付く中津箒

 かつて柳宗悦氏が紹介したように、日本には大正から昭和にかけて、人々の暮らしに根ざした多くの手仕事がありました。しかし時代の流れとともに姿を消してしまったものも少なくありません。そうした手仕事の再興に取り組む人々の営みに迫るべく、私たちは5月10日、神奈川県愛甲郡愛川町中津(旧中津村)にある工房「株式会社まちづくり山上」を訪ねました。ここでは柳川直子さんが中心となり中津箒を製作しています。

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 中津箒の歴史は、幕末に柳川商店の初代・柳川常右衛門が箒作りを始めたことに遡ります。やがて中津村周辺では、箒づくりが一大産業となりましたが、昭和に入り東京オリンピック以降は、日本人の生活がますます西洋化するに伴い、箒の需要は減少し衰退に向かいます。
 「このままでは箒が絶えてしまう」そうした危機感を胸に、家業を再興しようと決意したのが、柳川商店6代目にあたる直子さんでした。彼女は2003年、48歳にして柳川商店の屋号「山上」を冠した「株式会社まちづくり山上」を設立。中津に伝わる技術を活かして作る箒に「中津箒」という名前を与え、素材であるホウキモロコシの栽培から職人育成、体験ワークショップなど、幅広い活動を展開し始めます。
 最初に取り組んだのは、箒づくりに欠かせないホウキモロコシの種の確保でした。直子さんは各地を訪ね歩き、ようやく近隣の高齢者が自家採種していた種を譲り受けることができました。除草剤を使わず手で草を抜き、夏の日差しの下で土と向き合う日々。「草を育てるのがいちばん大変なんです」と直子さんは語ります。虫、天気、草の勢いなど自然の力に翻弄されながらも、なるべく手をかけすぎず、草の生命力と共存する栽培方法を探っています。
 そして直子さんは同時期に、中津箒の復興の準備のために学芸員の資格を取ろうと一念発起し、武蔵野美術大学の大学院に入学します。そこで、後に中津箒の製作面のみならず、その魅力と価値を社会に広める活動に大きな貢献を果たす吉田慎司氏と出会いました。もともと彼は優れたアーチストであり、直子さんは彼の多岐にわたるサポートにより素材や技術への理解も深めることができました。現在も彼は北海道を拠点としながら、毎年夏になると工房を訪れて製作に加わってくれています。

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京都の職人が作った箒

 中津箒の製作には、素材づくりから染色、道具の手入れに至るまで多くの工程があります。多くの道具は工房で自作されたもので、染色にも工夫が凝らされています。「父の代までの箒は、言われた通りに作るだけの“道具”でした。でも私は、“美しい箒”を作りたいんです」と直子さん。美しい箒づくりは、京都の職人が作った見事な箒を目にし、衝撃を受けたことが契機でした。直子さんは、その技を学ぶため実際にその職人の元を訪ねたといいます。「作り方は人の中にしか残っていない。記録には残っていないんです」と語り、人から人へと伝わる「手の技」こそが、ものづくりの本質だと確信しています。
 現在の中津箒は、日本人の暮らしに合わせて進化を遂げています。かつての長い箒に代わり、今はテーブルや椅子のある住空間に馴染む短めの箒が主流に。持ち手の角度なども工夫され、手首に負担がかからない設計です。つまり、使う人の癖を覚えて形が整い、しなやかさを増していくのです。「箒は、使うことで美しくなります」。直子さんの言葉の裏には、単なる造形を超えて、使い手とともに育つ道具への深い信頼があります。

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 そして工房では、現在7人の職人さんが働いていますが、子育て中の人も働きやすいよう柔軟な体制が整えられ、彼らは製作だけでなく販売や畑仕事も含めた全体の仕事に関わります。「昔、この工房ではベテラン職人が偉そうに後輩を指導するような場所だったけれど、私はそんな場にはしたくないんです」と直子さん。かつての封建的な徒弟制度から脱却し、誰もが気持ちよく働ける職場づくりを重視しています。
 中津箒は、単なる掃除道具ではありません。それは、丁寧な暮らしを体現する道具であり、人と人、そして自然との向き合い方を映し出す存在といえます。工房では、今も若い世代とともに新たな箒の可能性を模索しながら、静かに、しかし確かにその営みが続けられています。
(江澤伸子)


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posted by 東京民藝協会 at 12:15| Comment(0) | その他
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