たくみの志賀社長とお話しすることが叶わなくなって、はや半年がたつというのに、まだその実感がない。今でもたくみの二階に上がればお会いできるような気がするのは、きっと私だけではないだろう。志賀直哉の「なおや」に、アクセントをつけない独特の発音とともに、耳の奥底で、志賀社長のお話しがあの口調そのままに、響き続けている。
志賀社長のお名前を知ったのは、「民藝」誌上であった。学生時代に、柳宗悦の民芸運動を近代化批判のすぐれた一例ととらえて感動した私は、民芸と流通について多くの論稿を発表されていた志賀直邦さんという名前に興味を持ち、バックナンバーを見つけては志賀さんの書いたものがないかチェックしていた。この世を美で埋め尽くすには、流通、経済の探究こそが重要だと思ったからだ。
柳はいたるところで、いい使い手が問屋を変えるということを言っているし、自身も「美と経済」という論稿を残している。また、アーサー・ペンティなどギルド社会主義者の本も熟読していたというから、経済の研究も重要視していたように思う。しかし、今までの民芸運動を振り返ってみると、経済の研究はあまり活発には行われていなかったように思う。
もちろん、柳のもとに集った若者たちには、「ほんとうの世界」を求めて集まった人が多かっただろうから、経済問題の探究に深く傾倒していた人もいただろう(松方三郎などがその例であろうか)。しかし、民芸美と経済の融合を導くような動きは、現代の経済学が扱いうる範囲を超えているからか、大きな流れとはなっていない。
そんな中で、美と経済の問題を背負ったのは、たくみをはじめとする民芸店のみなさんであったと思う。特に志賀さんは、民芸の民芸たるゆえんをしめさなければならないたくみという特殊な会社の顔として、この問題を一手に引き受けておられたのだと思う。田中豊太郎時代の「民藝」誌には、雑誌の最後の方に、「たくみだより」というのが載っていて、当時のスタッフの想いがつづられているが、そこからは、たくみという特殊な会社を、給料を出さなければいけない普通の会社としても運営していかなければならなかった苦労がうかがわれる。
多くの場合、たくみに対するうるさがたへの弁明と、今後の取り組みについての表明に紙幅が割かれているのだが、「そんな程度のものを扱っていて恥ずかしくないのか」と言えばいいだけのうるさがたに対し、作り手の生活も保障しながら、なんとか格好がつく店づくりをしなければならない当事者たちは、どれだけ大変だったろうか。うるさがたは、店に行って、あがりのいい一枚を選び抜けばいいが、しかしあとにはそれには劣る数百枚の皿が残ってしまう。
志賀社長の時代にはさらに大変だっただろう。伝統的な産地にも変化が起こり、選ぶことも難しくなり、無印良品などの大資本の発注ロットに合わせる注文でないと、品物を手に入れることすらかなわないケースも出てくる。必然、柳の示した美の標準から遠くなってしまうこともあるだろう。悪貨が良貨を駆逐する現代にあって、この世を美しいもので埋め尽くすという民芸運動の悲願は達成されるのだろうか。達成されると信じたいし、それは志賀社長の悲願でもあっただろう。幸い、経済史の分野では、「神の見えざる手」ではなく、消費者の「見える手」が、経済の秩序形成に重要な役割を果たしてきたという研究が現れてきている。では、どうしたら「見える手」を形成できるのだろうか。そんなことも志賀さんとお話ししたかった。
2016年に、志賀社長が「民藝」誌に連載された「民藝運動90年の歩み 白樺の時代と、民藝美の発見、その展開」を『民藝の歴史』という一冊の文庫本にまとめさせていただいた。ほんとうはこの本のタイトルは『民芸運動の歴史』としたかった。だが、それだと読者の範囲をせばめるからということで、現在のタイトルに落ち着いたという経緯がある。
志賀さんは、史学の徒だったから、学生新聞を編集し一時期新聞社につとめられたジャーナリスティックな資質をお持ちだったから、あの本を書けたのではないと思う。民芸運動のまん中にいて、その運動の担い手であったからこそお書きになれたのではないだろうか。志賀さんの本は、歴史家やジャーナリストの叙述ではなく、当事者の記録であった。いつか志賀さんに報告できるような、続『民芸運動の歴史』の読める日が来ることを、期待している。
藤岡泰介(筑摩書房)
posted by 東京民藝協会 at 18:44|
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