民藝協会の皆様、平素お世話になっております。会員の世川祐多と申します。
ただいま、研究員として勤務中の松戸市戸定歴史館にて「松平男爵家の軌跡」という展覧会を開催いたしております。
シャルロット・ペリアンと民藝の関わりについてのさらなる研究が俟たれますが、徳川家御家門の大名家、津山松平家の分家の松平男爵家の松平斉光氏は、パリ大学で博士号を取られ、シャルロット・ペリアンの友人となり、彼女の日本滞在の時に、諸々お世話をした事実が判明いたしました。
工芸指導所での講演では、柳宗理氏とともに付き添い、通訳もされておられます。
この度、松平家よりは、徳川慶喜公の弟で、パリ万博に将軍名代として派遣された松戸徳川家の徳川昭武公のご子孫でもいらっしゃるということで、御家の史料を一括で寄贈された次第です。
たまたまそんな中で、ペリアンと松平男爵の関係が再発見されました。
ペリアンと民藝についての研究の進展への期待や、当時の民藝運動に携わられた諸先輩方の顕彰も兼ねまして、民藝協会の方々に松平斉光氏をご記憶いただければとご案内させていただく次第でございます。
松戸市戸定歴史館は、昭武公が最後の水戸藩主を退任後、松戸で隠居され、終の住処とされた戸定邸に併設の歴史館となります。
戸定邸は知名度が低いながらも、珍しく明治時代の大名家の邸宅と庭園が残る国の重要文化財でして、建築をご覧いただくだけでも民藝協会の方々にはお楽しみいただけると存じます。
ぜひお足をお運びいただけましたら幸いに存じます。
また、戦後に何回も訪日したペリアンと直接お会いされた会員の方がいらっしゃいましたら、ヒストリーとして残さなくてはと存じますので、
ご一報いただけますと幸いです。
よろしくお願い申し上げます。
世川祐多 拝
企画展「松平男爵家の軌跡ー将軍とプリンスの子孫たちの近代」
会期
2024年10月5日(土)〜12月27日(金)
前期:2024年10月5日(土)〜11月10日(日)
後期:2024年11月12日(火)〜12月27日(金)
〒271-0092 松戸市松戸714番地の1
電話:047-362-2050
2024年11月21日
松戸市戸定歴史館「松平男爵家の軌跡」開催の告知
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2023年06月08日
「湯浅八郎・民芸の心」
国際基督教大学博物館湯浅八郎記念館では、2023年7月7日まで「湯浅八郎・民芸の心」が開催中で、ICUの初代学長湯浅八郎(1890-1981)が収集した数々の工芸品が展示されています。

湯浅八郎は、民藝運動の創始期からの支持者、運動家です。柳宗悦らは京都で民藝運動を始動させましたが、当時京都帝国大学農学部教授だった湯浅は、「民藝」という全く新しい美の概念に触発された知識層の一人であり、自らも柳らの提示する美の標準にそくした品々を探し求めるようになります。そのきっかけになったのが、柳らが1929(昭和4)年に京都の大毎会館で開催した「日本民藝品展覧会」でした。湯浅は、この展覧会を見た時の衝撃をこのように語っています。
湯浅は、この展覧会に触発された仲間たち6名と共に民藝の同好会を結成しました。同人はそれぞれ、骨董商や道具屋、朝市などをめぐっては工芸品を収集し、それらを持ち寄って独自の民藝展覧会を開催するまでになります。これが現在の京都民藝協会の前身となる「京都民藝同好会」です。

「日本民藝品展覧会」が開催された旧・京都大毎会館(現・1928ビル)。湯浅は展覧会を見たあと会場を飛び出し「どう飛び出したか、私は記憶していません。窓から飛び降りたことはないけれどね、確かに階段を、一つずつなんて降りたはずはないですね。本当に飛び降り」て〔湯浅・前掲〕、付近の道具屋を訪れ民芸品を探し回ったという。モダンな建物の内部には、現在ギャラリーなどが入っている(2022年8月撮影)。
今回の展示では、そうして民藝の世界へ足をふみ入れた湯浅が収集してきた品々や資料が並び、傍らには、湯浅による集中講義(1978年)の講義録『民芸の心』の関連部分の抜粋が付されています。湯浅の言葉は、民藝運動にリアルタイムで衝撃を受けた知識層の人々に、柳の民藝論がどのように受容され、解釈されていったかを知らしめてくれるもので、ことのほか新鮮で興味深いものでした。1982年に刊行されたこの講義録は、開館40周年を機に新装和英版として復刊され、記念館の窓口でも購入できます。

湯浅八郎は、民藝運動の創始期からの支持者、運動家です。柳宗悦らは京都で民藝運動を始動させましたが、当時京都帝国大学農学部教授だった湯浅は、「民藝」という全く新しい美の概念に触発された知識層の一人であり、自らも柳らの提示する美の標準にそくした品々を探し求めるようになります。そのきっかけになったのが、柳らが1929(昭和4)年に京都の大毎会館で開催した「日本民藝品展覧会」でした。湯浅は、この展覧会を見た時の衝撃をこのように語っています。
京都の毎日新聞社の会館で開かれて、二階でしたが、私はそこに行って、そこにあるものを見て、本当に全身燃え上がるように興奮しました。これだな、この世界なら私でもついていける、というふうに思いました。〔湯浅八郎(述)田中文雄(編)『民芸の心』〔新装和英版〕2023年〕
湯浅は、この展覧会に触発された仲間たち6名と共に民藝の同好会を結成しました。同人はそれぞれ、骨董商や道具屋、朝市などをめぐっては工芸品を収集し、それらを持ち寄って独自の民藝展覧会を開催するまでになります。これが現在の京都民藝協会の前身となる「京都民藝同好会」です。

「日本民藝品展覧会」が開催された旧・京都大毎会館(現・1928ビル)。湯浅は展覧会を見たあと会場を飛び出し「どう飛び出したか、私は記憶していません。窓から飛び降りたことはないけれどね、確かに階段を、一つずつなんて降りたはずはないですね。本当に飛び降り」て〔湯浅・前掲〕、付近の道具屋を訪れ民芸品を探し回ったという。モダンな建物の内部には、現在ギャラリーなどが入っている(2022年8月撮影)。
今回の展示では、そうして民藝の世界へ足をふみ入れた湯浅が収集してきた品々や資料が並び、傍らには、湯浅による集中講義(1978年)の講義録『民芸の心』の関連部分の抜粋が付されています。湯浅の言葉は、民藝運動にリアルタイムで衝撃を受けた知識層の人々に、柳の民藝論がどのように受容され、解釈されていったかを知らしめてくれるもので、ことのほか新鮮で興味深いものでした。1982年に刊行されたこの講義録は、開館40周年を機に新装和英版として復刊され、記念館の窓口でも購入できます。
(天野)
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2020年02月15日
民藝講座を終えて
私が民藝協会に入ったのがちょうど一年前。私はkoginbankという青森の伝統工芸であるこぎん刺しの魅力を伝えるウェブマガジンを運営しており、そのご縁で民藝をちょっと勉強してみようと。もともと、学生の時分からこぎん刺しに限らず、編粗品や各地の工芸品には関心があったので、今が深める機会だと思ったのだった。
こぎん刺しは、柳宗悦が雑誌「工芸14号」で素晴らしい言葉とともに紹介されたおかげで絶滅を逃れ、今に至っている。この工芸の文章には、故郷のこぎん刺しをこんなにも讃えてくれるのかと、涙が出そうなほど感動した。今もなお、こぎん刺しに携わる人の中にはこの文章を大切している人は少なくないはず。ところで、民藝と評された工芸はこぎん刺しのような布に限らず幅広く存在する。これらに柳宗悦はどのような言葉を残したのだろう、ふと気になった。柳宗悦の視点を辿ってみたいと思った。

ちょっと自分なりにも考えてみた。私にとって民藝とはアノニマスデザインだ。無名の職人が作る粋な日用品が民藝だと思っていた。でも、河井寛次郎、濱田庄司、…名だたる民藝の作家がいる。早々に矛盾が出て来た。そして、ある人が民藝は豊かな暮らしのための思想だと話してくれた。あれ?物じゃないの?私の中で民藝があっち行ったり、こっち行ったり、頭の中がぐるぐるしていた矢先に「民藝協会の民藝講座」が始まるという。願ったり叶ったりの機会であった。

民藝講座では5名の講師がそれぞれの視点で民藝を、柳宗悦を語ってくださった。民藝の概念が知りたいという目的があったが、今まで物のフォルムやその美しさにばかり囚われていた私ごときに摑みきれるものではない。とてつもなく壮大であることにとてつもない畏怖を感じた。柳宗悦の没後も、これだけ長くいろんな人が民藝を研究し語られている。しかもアプローチは多岐にわたり深い。民藝は掘っても掘っても私には一生掘りつくせないだろう。そしたら寧ろ俄然に、”今の”民藝が面白くなってきた。
今となっては、天然素材の手工芸品は、生活の必需品ではなく、贅沢な趣向品となり、スマホを介して効率的・高性能なモノやサービスを、手ごろに享受できる時代になった。私たちの生活にある日用品のラインナップには、形のあるモノだけじゃなくなって来ている。これからの時代の中で民藝という思想がどのような存在になっていくのか、どのような民藝観が見えてくるのか、民藝を追う楽しみができた。
こぎん刺しは、柳宗悦が雑誌「工芸14号」で素晴らしい言葉とともに紹介されたおかげで絶滅を逃れ、今に至っている。この工芸の文章には、故郷のこぎん刺しをこんなにも讃えてくれるのかと、涙が出そうなほど感動した。今もなお、こぎん刺しに携わる人の中にはこの文章を大切している人は少なくないはず。ところで、民藝と評された工芸はこぎん刺しのような布に限らず幅広く存在する。これらに柳宗悦はどのような言葉を残したのだろう、ふと気になった。柳宗悦の視点を辿ってみたいと思った。

ちょっと自分なりにも考えてみた。私にとって民藝とはアノニマスデザインだ。無名の職人が作る粋な日用品が民藝だと思っていた。でも、河井寛次郎、濱田庄司、…名だたる民藝の作家がいる。早々に矛盾が出て来た。そして、ある人が民藝は豊かな暮らしのための思想だと話してくれた。あれ?物じゃないの?私の中で民藝があっち行ったり、こっち行ったり、頭の中がぐるぐるしていた矢先に「民藝協会の民藝講座」が始まるという。願ったり叶ったりの機会であった。

民藝講座では5名の講師がそれぞれの視点で民藝を、柳宗悦を語ってくださった。民藝の概念が知りたいという目的があったが、今まで物のフォルムやその美しさにばかり囚われていた私ごときに摑みきれるものではない。とてつもなく壮大であることにとてつもない畏怖を感じた。柳宗悦の没後も、これだけ長くいろんな人が民藝を研究し語られている。しかもアプローチは多岐にわたり深い。民藝は掘っても掘っても私には一生掘りつくせないだろう。そしたら寧ろ俄然に、”今の”民藝が面白くなってきた。
今となっては、天然素材の手工芸品は、生活の必需品ではなく、贅沢な趣向品となり、スマホを介して効率的・高性能なモノやサービスを、手ごろに享受できる時代になった。私たちの生活にある日用品のラインナップには、形のあるモノだけじゃなくなって来ている。これからの時代の中で民藝という思想がどのような存在になっていくのか、どのような民藝観が見えてくるのか、民藝を追う楽しみができた。
(石井勝恵)
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2019年08月12日
東京民藝協会+日本民藝館友の会 日帰りバス旅行レポート(7月21日)
「どんな出逢いが待っているのかな。」
そんなワクワクした気持ちで迎えた、梅雨の終わりの日曜日。東京民藝協会と日本民藝館友の会の日帰りバス旅行に、友人2人と初めて参加させて頂きました。
初めて訪れた上田の街。目の前に広がる山並みに、真田丸でお馴染みになった真田の六文銭のマークに胸躍りながら、バスの旅が始まりました。
まず初めに、青木村郷土美術館へ。
入り口を入ると目に飛び込んできたのが、小さな木彫りの木端人形。スキーをする男性や大きな桶を担ぐ女性など、上田の人々の日常の姿を表現した、とても可愛らしい木彫人形の数々に、早くも心を奪われてしまいました。聞けば、大正時代に冬の間の副業として広まった農民芸術なのだとか。他にも、中村直人さんの大原女像、芭蕉像、良寛像という木彫りの作品は、いつまでも眺めていたい、そんな気持ちになる作品でした。

そこから階段を登り、国宝大法寺三重塔へ。
見返して見たくなるほど美しいところから、「見返りの塔」と呼ばれるというその塔は、丘の中腹にひっそりと、そして厳かな姿で私たちを迎えてくれました。
道の駅あおきでは、お昼&お買い物タイム。
お昼に冷たいお蕎麦をいただき、お土産も沢山買って、メインイベントの修那羅峠へ。
これは登山???と思うほど、割と本格的な坂道を登り、山の上にある安宮神社へ。
身をかがめて入り口を抜けたその先に広がっていたのは、ヒンと冷えた空気と瑞々しい山の香り。その道端に所狭しと並ぶ、表情豊かで素朴な石神仏様は、どれもとても愛らしく、時間を忘れてしまうほどでした。中でも、ブナの木の穴の中にひっそりとおられるブナ観音様をみんなで探した時には、山の中で宝ものを探すような、そんなワクワク感も味わう事ができました。

次にお邪魔した前山寺で、こまゆみ峠を遠くに眺めながら、名物のくるみおはぎを頂きました。甘さもほどよく、ほっとするお味のおはぎとお茶で、しばしの休息。
そして最後に、戦争で夢を奪われてしまった若者たちの作品を展示する無言館へ。どの作品も、美しく、優しく、力強く…そして切ない。色々な想いが頭をめぐり、胸にグッとくるものがありました。
こうして、楽しい上田の旅は終わりました。
初めてお会いした皆さんとも、いつのまにか仲間のような気持ちになれた、とても和やかな旅でした。
この様な素敵なツアーを企画して下さったことに感謝です。ありがとうございました。
○この原稿について
この原稿は、民藝館の古屋さんのご友人が書いて下さったものです。
バス旅行は、参加者が予定の人数に達しなくて、------という事は、会計が赤字になることを意味するのですが、困っていました。
古屋さんがご友人を何人も誘って下さって何とか形になりました。
おまけに、感想文まで書いて下さって、まことにありがたいことでした。
柴田さん、古屋さん、ありがとうございました。
それからもう一つ、上田民藝協会の、小市会長と、清水さんご夫妻に大変お世話になりました。
見学先、その組み合わせなどに助言をいただき、また下見にはお忙しい中ご案内までしていただきました。
さらに小市さんは当日もお金を払って参加して下さり、清水さんご夫妻は車を出して下さいました。本当に助かりました。
重ね重ねありがとうございました。/藤田
そんなワクワクした気持ちで迎えた、梅雨の終わりの日曜日。東京民藝協会と日本民藝館友の会の日帰りバス旅行に、友人2人と初めて参加させて頂きました。
初めて訪れた上田の街。目の前に広がる山並みに、真田丸でお馴染みになった真田の六文銭のマークに胸躍りながら、バスの旅が始まりました。
まず初めに、青木村郷土美術館へ。
入り口を入ると目に飛び込んできたのが、小さな木彫りの木端人形。スキーをする男性や大きな桶を担ぐ女性など、上田の人々の日常の姿を表現した、とても可愛らしい木彫人形の数々に、早くも心を奪われてしまいました。聞けば、大正時代に冬の間の副業として広まった農民芸術なのだとか。他にも、中村直人さんの大原女像、芭蕉像、良寛像という木彫りの作品は、いつまでも眺めていたい、そんな気持ちになる作品でした。

そこから階段を登り、国宝大法寺三重塔へ。
見返して見たくなるほど美しいところから、「見返りの塔」と呼ばれるというその塔は、丘の中腹にひっそりと、そして厳かな姿で私たちを迎えてくれました。
道の駅あおきでは、お昼&お買い物タイム。
お昼に冷たいお蕎麦をいただき、お土産も沢山買って、メインイベントの修那羅峠へ。
これは登山???と思うほど、割と本格的な坂道を登り、山の上にある安宮神社へ。
身をかがめて入り口を抜けたその先に広がっていたのは、ヒンと冷えた空気と瑞々しい山の香り。その道端に所狭しと並ぶ、表情豊かで素朴な石神仏様は、どれもとても愛らしく、時間を忘れてしまうほどでした。中でも、ブナの木の穴の中にひっそりとおられるブナ観音様をみんなで探した時には、山の中で宝ものを探すような、そんなワクワク感も味わう事ができました。

次にお邪魔した前山寺で、こまゆみ峠を遠くに眺めながら、名物のくるみおはぎを頂きました。甘さもほどよく、ほっとするお味のおはぎとお茶で、しばしの休息。
そして最後に、戦争で夢を奪われてしまった若者たちの作品を展示する無言館へ。どの作品も、美しく、優しく、力強く…そして切ない。色々な想いが頭をめぐり、胸にグッとくるものがありました。
こうして、楽しい上田の旅は終わりました。
初めてお会いした皆さんとも、いつのまにか仲間のような気持ちになれた、とても和やかな旅でした。
この様な素敵なツアーを企画して下さったことに感謝です。ありがとうございました。
柴田菜子
○この原稿について
この原稿は、民藝館の古屋さんのご友人が書いて下さったものです。
バス旅行は、参加者が予定の人数に達しなくて、------という事は、会計が赤字になることを意味するのですが、困っていました。
古屋さんがご友人を何人も誘って下さって何とか形になりました。
おまけに、感想文まで書いて下さって、まことにありがたいことでした。
柴田さん、古屋さん、ありがとうございました。
それからもう一つ、上田民藝協会の、小市会長と、清水さんご夫妻に大変お世話になりました。
見学先、その組み合わせなどに助言をいただき、また下見にはお忙しい中ご案内までしていただきました。
さらに小市さんは当日もお金を払って参加して下さり、清水さんご夫妻は車を出して下さいました。本当に助かりました。
重ね重ねありがとうございました。/藤田
posted by 東京民藝協会 at 18:58| Comment(0)
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2019年06月18日
「お岩木さま」に愛される弘前 〜日本民藝協会全国大会〜
弘前という土地は岩木山に見守られて広がっている。土地に住む人々は朝な夕なに岩木山を眺め、毎日の心の支えにしている。心の支えにするのもむべなるかな、一つには弘前は周囲に競うような大きさの山がとんと見受けられないからであろう。その高さ、1,625m。とは言うものの、身近なようでいて案外近寄りがたいものだ。ある面からは穏やかな稜線を描くのに対して、別の面から見るとゴツゴツ険しい。岩木山は「穏やかさ」も「険しさ」もどちらも併せ持っている。だからこそなのか、土地の人々は岩木山を呼び捨てにせず「お山」とか「お岩木さま」などと敬って呼ぶそうな。年に1回のお山参詣も廃れず今に続いている。
さて、土地土地の恵みを受けた民藝は生活に「幸せ」を添えるために存在しているとつくづく思う。昔は使う人の顔が見えていたものだから、作り手は使い手を想いながら作っていたと聞く。当然出来上がったモノもそれぞれの身体の部位に添うのである。

弘前城から望む岩木山
「吾唯足るを知る」という言葉がある。自身の環境は一つの恵まれたものなのであるから、それはそれとして受け入れよ、大体こんな意味である。現代の生活はモノに溢れている分、一つ一つの価値観がよく顧みられないまま消費されている。そのため、「もっと××したい、○○が欲しい」という欲望が先に立ち、止まることを知らない。ただし、手に入れた瞬間に「使う」ということよりも「手に入れた」ことに満足して終わってしまうのはあまりにも悲しいではないか。または使っていても粗雑な扱いでモノの寿命を早めてしまうのも、また悲しいではないか。
太陽がどんなものにも平等に優しく日差しを投げかけるように、「無」から生まれた「有」を私達はもっと愛さなければなるまい。その生み出された力は驚嘆に値するのであるから。
今回、弘前に生まれて初めて出向いてこぎん刺しや悪戸焼、伊達げら…等々の民藝に触れた。決して主張が強いわけではない。こぎん刺しは麻の藍染にびっしりと木綿の糸を刺すことで寒さを防いできた。使い手ができるだけ温かく包まれるよう願って刺されたのだろう。隙間なくびっしり糸を刺している。悪戸焼は暗い色合いであるものの、却って重厚感のある焼き物だ。その色使いを見ていると心が静まってくる。伊達げらは雨や雪を防ぐ「蓑」に似たもの。首回りをぐるりと囲むように刺繍が施されている。使い手を大事に思って一刺し一刺し刺したのだろうか…?じっとこれらの品々(弘前市立博物館にて「青森県の民芸」を開催していた)を見ているとこのような感興が浮かんできた。夫婦が共白髪になるまで連れ添うのと同じように、ずっと使い手の生活に寄り添ってきたのは確かであろう。
手仕事の温かみがしみじみと湧き出るのは、素朴な美しさを曲がりなりにも感じ取れるようになったから。そして、素朴な美しさとは反対側に位置する美の存在を曖昧に把握するようになったからではないだろうか。このような和歌がある。
花をのみまつらん人に山里の
ゆき間の草の春を見せばや(新古今和歌集・藤原家隆)
※梅とか桜の華やかな美しさしか知らない人に、雪に埋もれてひっそりと春を待つ草や花の素朴な美しさを是非お見せしたいものだ。
利休が侘茶の心得をこの和歌をもって示したように、茶道も民藝も「ゆき間の草」に美を見出す。「素朴」ということは素直でありのままであり、力強さを秘めている。「素朴」な美を秘めたモノは使えば使うほど身に馴染み、壊れにくいものだ。ただ、こうした「素朴」な美を感じ取れるのも梅や桜の対極に位置する「華やかな」美を知っているからである。「華やか」な美は儚い。一時の盛り上がりを見せて散ってしまう。繊細ではあるがどこか遠い存在だ。使うというよりも眺める。「華やか」な美と「素朴」な美を両方知った上で、「素朴」な美が良いと直観する。それが茶道であり民藝である。

弘前こぎん研究所にて
弘前のあの数々な「素朴」な美を支えている存在として、岩木山への厚い信仰があるのだろう。恵みも与えてくれる象徴でもあるから、土地の人々は眺める時にはお山を探し、毎年のお山参詣も欠かさない。対して「華やかな」美を具体的にコレと言うのは難しいけれども、実用的ではなく、お飾りのようなものが総じて当てはまるであろう。
土地土地は人々に恵みを与えもすれば、いとも簡単に奪いもする。冒頭で触れたように穏やかでもあり、険しい岩木山は弘前の象徴として、今までも、そしてこれからもそうあり続けるのだろう。捉えようのない超越的な存在を受け入れ、畏れ、敬い、愛す。弘前の種種の民藝の宝はこうして育まれた。亀の子の歩みではあるけれども、民藝の一つ一つの宝を観る眼を育てていこう。弘前の風にそう、決意を促されたのであった。<終 2019.6.16>
さて、土地土地の恵みを受けた民藝は生活に「幸せ」を添えるために存在しているとつくづく思う。昔は使う人の顔が見えていたものだから、作り手は使い手を想いながら作っていたと聞く。当然出来上がったモノもそれぞれの身体の部位に添うのである。

弘前城から望む岩木山
「吾唯足るを知る」という言葉がある。自身の環境は一つの恵まれたものなのであるから、それはそれとして受け入れよ、大体こんな意味である。現代の生活はモノに溢れている分、一つ一つの価値観がよく顧みられないまま消費されている。そのため、「もっと××したい、○○が欲しい」という欲望が先に立ち、止まることを知らない。ただし、手に入れた瞬間に「使う」ということよりも「手に入れた」ことに満足して終わってしまうのはあまりにも悲しいではないか。または使っていても粗雑な扱いでモノの寿命を早めてしまうのも、また悲しいではないか。
太陽がどんなものにも平等に優しく日差しを投げかけるように、「無」から生まれた「有」を私達はもっと愛さなければなるまい。その生み出された力は驚嘆に値するのであるから。
今回、弘前に生まれて初めて出向いてこぎん刺しや悪戸焼、伊達げら…等々の民藝に触れた。決して主張が強いわけではない。こぎん刺しは麻の藍染にびっしりと木綿の糸を刺すことで寒さを防いできた。使い手ができるだけ温かく包まれるよう願って刺されたのだろう。隙間なくびっしり糸を刺している。悪戸焼は暗い色合いであるものの、却って重厚感のある焼き物だ。その色使いを見ていると心が静まってくる。伊達げらは雨や雪を防ぐ「蓑」に似たもの。首回りをぐるりと囲むように刺繍が施されている。使い手を大事に思って一刺し一刺し刺したのだろうか…?じっとこれらの品々(弘前市立博物館にて「青森県の民芸」を開催していた)を見ているとこのような感興が浮かんできた。夫婦が共白髪になるまで連れ添うのと同じように、ずっと使い手の生活に寄り添ってきたのは確かであろう。
手仕事の温かみがしみじみと湧き出るのは、素朴な美しさを曲がりなりにも感じ取れるようになったから。そして、素朴な美しさとは反対側に位置する美の存在を曖昧に把握するようになったからではないだろうか。このような和歌がある。
花をのみまつらん人に山里の
ゆき間の草の春を見せばや(新古今和歌集・藤原家隆)
※梅とか桜の華やかな美しさしか知らない人に、雪に埋もれてひっそりと春を待つ草や花の素朴な美しさを是非お見せしたいものだ。
利休が侘茶の心得をこの和歌をもって示したように、茶道も民藝も「ゆき間の草」に美を見出す。「素朴」ということは素直でありのままであり、力強さを秘めている。「素朴」な美を秘めたモノは使えば使うほど身に馴染み、壊れにくいものだ。ただ、こうした「素朴」な美を感じ取れるのも梅や桜の対極に位置する「華やかな」美を知っているからである。「華やか」な美は儚い。一時の盛り上がりを見せて散ってしまう。繊細ではあるがどこか遠い存在だ。使うというよりも眺める。「華やか」な美と「素朴」な美を両方知った上で、「素朴」な美が良いと直観する。それが茶道であり民藝である。

弘前こぎん研究所にて
弘前のあの数々な「素朴」な美を支えている存在として、岩木山への厚い信仰があるのだろう。恵みも与えてくれる象徴でもあるから、土地の人々は眺める時にはお山を探し、毎年のお山参詣も欠かさない。対して「華やかな」美を具体的にコレと言うのは難しいけれども、実用的ではなく、お飾りのようなものが総じて当てはまるであろう。
土地土地は人々に恵みを与えもすれば、いとも簡単に奪いもする。冒頭で触れたように穏やかでもあり、険しい岩木山は弘前の象徴として、今までも、そしてこれからもそうあり続けるのだろう。捉えようのない超越的な存在を受け入れ、畏れ、敬い、愛す。弘前の種種の民藝の宝はこうして育まれた。亀の子の歩みではあるけれども、民藝の一つ一つの宝を観る眼を育てていこう。弘前の風にそう、決意を促されたのであった。<終 2019.6.16>
(東京民藝協会 鈴木華子)
posted by 東京民藝協会 at 18:23| Comment(7)
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2019年04月29日
吉田さんギャラリートークレポート
みなさん、初めまして。東京民藝協会会員の金子安也女です。同協会の藤田さんからの“ご厚意”で、先日「べにや民芸店」さんで行われたギャラリートークの様子をレポートさせていただきます!
現在、「べにや民芸店」さんでは吉田義和さんの「今戸土人形」展を開催中です(会期:2019年4月27日(土)〜5月6日(月・祝))。私が会場に到着したのは 19時直前だったのですが、すでに幾つかの作品は売り切れになっており大盛況です。展示初日のギャラリートークには吉田義和さんご本人と広島県民藝協会会員の千葉孝嗣さんが登壇され、20名を超えるお客様が参加されました。

初めて見る吉田義和さんの第一印象は“強面”(スミマセン)、しかし一旦話し始めると吉田さんの柔らかい口調と飾らない人柄に惹きつけられます。千葉さんのファシリテートのもと、吉田さんと今戸人形との出会い、製作を始めたキッカケ、作り方などに話題が広がります。

吉田さんは、最後の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年〜昭和19年)の今戸人形に魅せられ「彼が作った昔ながらの今戸人形を(後世に)残したい」と語ります。吉田さんが生まれた時には既に尾張屋春吉翁さんは亡くなられていたので、実際に今戸人形を作る作業を見ることはできず、残された人形や文献を参考に製作工程を想像しながら製作しています。今戸人形を作り始めて 30年近く経ちますが、今でも製作工程には試行錯誤する点もあるそうです。

吉田さんのこだわりは昔ながらの今戸人形の「姿」だけではありません。原料や素材にもこだわります。例えば「土」。今戸人形は江戸の郷土玩具ですから、土も江戸(東京)ものと決めています。どうやって採取しているのかと思えば、なんと工事現場に行ってブルドーザーで掘られた土を譲ってもらうのだとか! もらった土はそのままだと使えないので、不純物を何度も取り除く作業をして粘土に仕上げます。絵付のイメージはありますが、土作りまでやっているとは思いもしませんでした。職人さんって意外と肉体労働なのですね。。そのほか「絵の具」にもこだわり、昔からある胡粉・墨などに膠(にかわ)を混ぜたものを使います。アクリルの絵の具を使った方が扱いは楽なのですが「経年した時に昔に作られたものと同じように古びて欲しい」という想いから、昔ながらの絵の具を使います。一方、昔作られていなかった形や出土しないものは、オリジナルで創作します。オリジナルのものを今戸人形と呼んでいいものか躊躇いもあったそうですが、お客様には好評で一安心したそうです。伝統と重んじ守るところは守りつつ、新たな魅力を開拓しているのですね。

ギャラリートークを通して、吉田さんの今戸人形に対する愛情や真っ直ぐな想いを感じることができました。途中「べにや民芸店」の奥村さんが「吉田さんの作品の魅力は作為的でない」というコメントを聞き、ポン!と膝を叩きました(心の中で)。吉田さんの今戸人形はもちろん、郷土玩具の何とも言えない愛くるしさに惹きつけられる理由はまさに「作為的でない」部分にあるのだと思います。人為的な狙い・あざとさ・媚を売る感じなど、出来れば感じたくないものが一切無い。だから見ていて心地良い、側に置いてもホッとするのではないでしょうか。
生きる上では必ずしも必要ではない人形。昔は神頼みや縁起担ぎで作ったそうですが、物質的に豊かになった現代における今戸人形の価値は何なのでしょう。単なるインテリアでは無いことは確かだけど、うまく表現する言葉が見つかりません。でも本能的に「ステキ!」と思えるものには言葉は不要かもしませんね。
GW にお時間がある方は是非、吉田さんの今戸人形展にお出かけください!ほっこりしますよ。(完)
現在、「べにや民芸店」さんでは吉田義和さんの「今戸土人形」展を開催中です(会期:2019年4月27日(土)〜5月6日(月・祝))。私が会場に到着したのは 19時直前だったのですが、すでに幾つかの作品は売り切れになっており大盛況です。展示初日のギャラリートークには吉田義和さんご本人と広島県民藝協会会員の千葉孝嗣さんが登壇され、20名を超えるお客様が参加されました。

初めて見る吉田義和さんの第一印象は“強面”(スミマセン)、しかし一旦話し始めると吉田さんの柔らかい口調と飾らない人柄に惹きつけられます。千葉さんのファシリテートのもと、吉田さんと今戸人形との出会い、製作を始めたキッカケ、作り方などに話題が広がります。

吉田さんは、最後の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年〜昭和19年)の今戸人形に魅せられ「彼が作った昔ながらの今戸人形を(後世に)残したい」と語ります。吉田さんが生まれた時には既に尾張屋春吉翁さんは亡くなられていたので、実際に今戸人形を作る作業を見ることはできず、残された人形や文献を参考に製作工程を想像しながら製作しています。今戸人形を作り始めて 30年近く経ちますが、今でも製作工程には試行錯誤する点もあるそうです。

吉田さんのこだわりは昔ながらの今戸人形の「姿」だけではありません。原料や素材にもこだわります。例えば「土」。今戸人形は江戸の郷土玩具ですから、土も江戸(東京)ものと決めています。どうやって採取しているのかと思えば、なんと工事現場に行ってブルドーザーで掘られた土を譲ってもらうのだとか! もらった土はそのままだと使えないので、不純物を何度も取り除く作業をして粘土に仕上げます。絵付のイメージはありますが、土作りまでやっているとは思いもしませんでした。職人さんって意外と肉体労働なのですね。。そのほか「絵の具」にもこだわり、昔からある胡粉・墨などに膠(にかわ)を混ぜたものを使います。アクリルの絵の具を使った方が扱いは楽なのですが「経年した時に昔に作られたものと同じように古びて欲しい」という想いから、昔ながらの絵の具を使います。一方、昔作られていなかった形や出土しないものは、オリジナルで創作します。オリジナルのものを今戸人形と呼んでいいものか躊躇いもあったそうですが、お客様には好評で一安心したそうです。伝統と重んじ守るところは守りつつ、新たな魅力を開拓しているのですね。

ギャラリートークを通して、吉田さんの今戸人形に対する愛情や真っ直ぐな想いを感じることができました。途中「べにや民芸店」の奥村さんが「吉田さんの作品の魅力は作為的でない」というコメントを聞き、ポン!と膝を叩きました(心の中で)。吉田さんの今戸人形はもちろん、郷土玩具の何とも言えない愛くるしさに惹きつけられる理由はまさに「作為的でない」部分にあるのだと思います。人為的な狙い・あざとさ・媚を売る感じなど、出来れば感じたくないものが一切無い。だから見ていて心地良い、側に置いてもホッとするのではないでしょうか。
生きる上では必ずしも必要ではない人形。昔は神頼みや縁起担ぎで作ったそうですが、物質的に豊かになった現代における今戸人形の価値は何なのでしょう。単なるインテリアでは無いことは確かだけど、うまく表現する言葉が見つかりません。でも本能的に「ステキ!」と思えるものには言葉は不要かもしませんね。
GW にお時間がある方は是非、吉田さんの今戸人形展にお出かけください!ほっこりしますよ。(完)
posted by 東京民藝協会 at 19:02| Comment(2)
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2018年12月03日
生誕三百年 木喰展 (身延町なかとみ現代工芸美術館)の見学会に参加して その2
9/16の日曜美術館の放送を観て「ぜひ、行きたい!」と思っていた山梨県身延町なかとみ現代工芸美術館で開催の木喰展。ちょうど同じタイミングで届いた東京民藝協会のお便りに木喰展見学のお誘いのチラシが同封されており、お声掛け下さった大島さんたちとご一緒させていただくことになりました。
当日、あれほど楽しみにしていたのにもかかわらず、予約していたバスに乗り遅れてしまうという大失態を犯してしまいました。次のバスも予約でいっぱいでキャンセル待ちをしたところで乗れるかどうかは不明。一瞬頭が真っ白になりましたが、ならばと電車で行くことに。バスターミナルから15分後に出発する松本行きのあずさに飛び乗り、甲府まで。その後美濃部線というローカル線に乗り換え、美術館の最寄駅で出会った方たちに相乗りさせていただきました。
そしてようやく展覧会場となるに到着。以前柚木先生の展覧会のお手伝いでお会いしたことがある方以外は「はじめまして」の方ばかり。初めてなのに遅刻して...恥ずかしさで穴があったら入りたい気分でしたが、皆さん、「大変だったわねぇ」と笑いながらも温かく迎え入れて下さいました。道路が渋滞していて皆さんもちょうど着いたところでした。

期間限定の「木喰おろしそば」
さてようやく展覧会会場へ。1度目はそれぞれ自由に鑑賞。お昼を挟んで2度目の鑑賞は日曜美術館の放送でも登場されていた身延町教育委員会主査・深沢広太さんが案内して下さいました。今回案内いただけたのは、訪問にあたり、幹事の大島さんが「美術館の方から2・3つお話が聞けたらありがたい」とお願いして下さっていたお蔭です。深沢さんは考古学がご専門で、普段は別の場所で勤務されているとのことでした。とても気さくな方で、自己紹介も「日本民藝館の館長さんと同じ苗字なんですよー」とお互いの共通点を見つけて距離感を縮めていくような配慮を感じました。
コンパスを使用して描いたという阿弥陀如来図の光背(目を近づけて見てみると小さな穴が確認できました)お堂に集まっていた人たちがお酒に酔っ払った勢いで髪の毛を塗ってしまった木喰像、柳宗悦先生が木喰の子孫である伊藤家に宛てた手紙など一度目はサラーっと見てしまった作品が、深澤さんの解説によって深く理解出来るようになりました。その中で一番心に残ったのは、すり減って顔がなくなっていた木喰像。冬にこどもたちがソリ替わりにして遊んだようで、周囲の大人もそのことに対して誰も咎めなかったこと。仏像というと、うやうやしく祀られているイメージがありましたが、木喰像に限ってはおそらくとても身近な存在だったのではないかと。子どもたちが楽しそうに遊んでいる光景を木喰さんがニコニコしながら見守っているようなそんなシーンが頭の中に浮かびました。
会場内を歩きながらふと思ったのが、木喰さんは61歳から仏像を彫り始めたとのことですが、それ以前は何も彫る機会がなかったのでしょうか。61歳でいきなり仏像を彫れるなんてすごいなぁと。機会があったらお尋ねしたいです。
当日、あれほど楽しみにしていたのにもかかわらず、予約していたバスに乗り遅れてしまうという大失態を犯してしまいました。次のバスも予約でいっぱいでキャンセル待ちをしたところで乗れるかどうかは不明。一瞬頭が真っ白になりましたが、ならばと電車で行くことに。バスターミナルから15分後に出発する松本行きのあずさに飛び乗り、甲府まで。その後美濃部線というローカル線に乗り換え、美術館の最寄駅で出会った方たちに相乗りさせていただきました。
そしてようやく展覧会場となるに到着。以前柚木先生の展覧会のお手伝いでお会いしたことがある方以外は「はじめまして」の方ばかり。初めてなのに遅刻して...恥ずかしさで穴があったら入りたい気分でしたが、皆さん、「大変だったわねぇ」と笑いながらも温かく迎え入れて下さいました。道路が渋滞していて皆さんもちょうど着いたところでした。

期間限定の「木喰おろしそば」
さてようやく展覧会会場へ。1度目はそれぞれ自由に鑑賞。お昼を挟んで2度目の鑑賞は日曜美術館の放送でも登場されていた身延町教育委員会主査・深沢広太さんが案内して下さいました。今回案内いただけたのは、訪問にあたり、幹事の大島さんが「美術館の方から2・3つお話が聞けたらありがたい」とお願いして下さっていたお蔭です。深沢さんは考古学がご専門で、普段は別の場所で勤務されているとのことでした。とても気さくな方で、自己紹介も「日本民藝館の館長さんと同じ苗字なんですよー」とお互いの共通点を見つけて距離感を縮めていくような配慮を感じました。
コンパスを使用して描いたという阿弥陀如来図の光背(目を近づけて見てみると小さな穴が確認できました)お堂に集まっていた人たちがお酒に酔っ払った勢いで髪の毛を塗ってしまった木喰像、柳宗悦先生が木喰の子孫である伊藤家に宛てた手紙など一度目はサラーっと見てしまった作品が、深澤さんの解説によって深く理解出来るようになりました。その中で一番心に残ったのは、すり減って顔がなくなっていた木喰像。冬にこどもたちがソリ替わりにして遊んだようで、周囲の大人もそのことに対して誰も咎めなかったこと。仏像というと、うやうやしく祀られているイメージがありましたが、木喰像に限ってはおそらくとても身近な存在だったのではないかと。子どもたちが楽しそうに遊んでいる光景を木喰さんがニコニコしながら見守っているようなそんなシーンが頭の中に浮かびました。
会場内を歩きながらふと思ったのが、木喰さんは61歳から仏像を彫り始めたとのことですが、それ以前は何も彫る機会がなかったのでしょうか。61歳でいきなり仏像を彫れるなんてすごいなぁと。機会があったらお尋ねしたいです。
近藤惠美
posted by 東京民藝協会 at 19:09| Comment(0)
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2018年11月17日
生誕三百年 木喰展 (身延町なかとみ現代工芸美術館)の見学会に参加して
天候にも恵まれ、又民藝協会ならではの解説をしていただき、とても充実した1日でした。ありがとうございました。
木彫の仏とじっと対面していると顔の表情が動きだし、何か云って下さっている様でしたが、まだまだ聞き取れず、老後に向かって(今真っ盛り中ですが)画集と対面したり、古本屋で以前手に入れていた柳宗悦著の「木喰さん」を少しずつ読んでみようと思っています

木彫の仏とじっと対面していると顔の表情が動きだし、何か云って下さっている様でしたが、まだまだ聞き取れず、老後に向かって(今真っ盛り中ですが)画集と対面したり、古本屋で以前手に入れていた柳宗悦著の「木喰さん」を少しずつ読んでみようと思っています
(鈴木祝子)

posted by 東京民藝協会 at 18:43| Comment(0)
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2017年11月18日
会員栗山さんのお店「標(しもと)」
今年当協会に入会して下さった栗山花子さんという方がいらして、お店をやっているということをお聞きした。ホームページを拝見すると、店主栗山さんの一所懸命さが伝わってくる。
最初のページの左側に「産地や作り手」という項目があって、民藝関係ではなじみのある窯などの名前が並んでいる。それらの産地や作り手を訪ねて、その様子を写真と文章で紹介している。
昨今は民藝ブームで、人気のある窯などでは需要に対して生産が追い付かない状態がもう何年も続いているという。電話一本で送ってきてくれるというのは過去のこと、したがって仕入のために直接出向くことになるのだろうが、そうしたからといって順調に運ぶわけでもない。ましてやこういっては失礼だが、新参である。そういう不利な状態でこれだけの窯の品物をおいていることは大変なことではないだろうか。かけた時間と労力、熱意に感心させられる。

さらに「うつわの値段」という項目があって、ものと値段の関係を解説し、それに対するご自分の考え方を書いている。産地、窯元ごとにさまざまな事情があって一律には語れないこと、珍しいものや変わったもの手のこんだものより、定番でつくられているものを無理のない値段で販売したいという。こういうことは、当人が言わなくても店のあり方に自ずとあらわれるものではないかという意見があるだろう。しかし買い手の初心者にとっては、その店が何を考えて品物を選び、値付けをしているかを知るのも有益ではないだろうか。

お聞きすると、以前は違う仕事をしていた。体を壊して休職中にあちこち見て回るうちに自分がこういうものが好きらしいということに気付いた。最初のうちは見たり買ったりするだけだったが、そのうちに露店などに出店するようになり、やがて通信販売を始めた。それが5年くらい前のこと、そして去年夏に開店したのだという。多分よいお客さんがついているのだろう。ほとんど一人でやっていて、たまに母上に店番を頼んでいるとのことである。

山手線駒込駅から歩いてすぐ、にぎやかな商店街の一角にある。焼きものの他に編組品、古い器などもある。流行りの雑貨類はあまりなくて、分類するとすれば民藝店か。ご本人は、民藝店を名乗るほどの店ではありませんとおっしゃっている。なに店かどうかはどうでもいいことで、好きなものを並べていたら民藝店に近い店になったのかな、と私は勝手に思ったのだが。
最後に店の名前のことだが、「標」という漢字一文字で、「しもと」と読むのだそうだ。難読漢字である。こんど来歴をきいてみよう。
住所:北区中里1-4-3 丸一コーポ101 山手線駒込駅東口から徒歩2分
最初のページの左側に「産地や作り手」という項目があって、民藝関係ではなじみのある窯などの名前が並んでいる。それらの産地や作り手を訪ねて、その様子を写真と文章で紹介している。
昨今は民藝ブームで、人気のある窯などでは需要に対して生産が追い付かない状態がもう何年も続いているという。電話一本で送ってきてくれるというのは過去のこと、したがって仕入のために直接出向くことになるのだろうが、そうしたからといって順調に運ぶわけでもない。ましてやこういっては失礼だが、新参である。そういう不利な状態でこれだけの窯の品物をおいていることは大変なことではないだろうか。かけた時間と労力、熱意に感心させられる。

さらに「うつわの値段」という項目があって、ものと値段の関係を解説し、それに対するご自分の考え方を書いている。産地、窯元ごとにさまざまな事情があって一律には語れないこと、珍しいものや変わったもの手のこんだものより、定番でつくられているものを無理のない値段で販売したいという。こういうことは、当人が言わなくても店のあり方に自ずとあらわれるものではないかという意見があるだろう。しかし買い手の初心者にとっては、その店が何を考えて品物を選び、値付けをしているかを知るのも有益ではないだろうか。

お聞きすると、以前は違う仕事をしていた。体を壊して休職中にあちこち見て回るうちに自分がこういうものが好きらしいということに気付いた。最初のうちは見たり買ったりするだけだったが、そのうちに露店などに出店するようになり、やがて通信販売を始めた。それが5年くらい前のこと、そして去年夏に開店したのだという。多分よいお客さんがついているのだろう。ほとんど一人でやっていて、たまに母上に店番を頼んでいるとのことである。

山手線駒込駅から歩いてすぐ、にぎやかな商店街の一角にある。焼きものの他に編組品、古い器などもある。流行りの雑貨類はあまりなくて、分類するとすれば民藝店か。ご本人は、民藝店を名乗るほどの店ではありませんとおっしゃっている。なに店かどうかはどうでもいいことで、好きなものを並べていたら民藝店に近い店になったのかな、と私は勝手に思ったのだが。
最後に店の名前のことだが、「標」という漢字一文字で、「しもと」と読むのだそうだ。難読漢字である。こんど来歴をきいてみよう。
(藤田)
住所:北区中里1-4-3 丸一コーポ101 山手線駒込駅東口から徒歩2分
posted by 東京民藝協会 at 20:06| Comment(5)
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2017年07月03日
第71回全国大会松本大会の報告
5月の松本は爽快だ。これを「山高く水清くして風光る」というそうで、27日㈯、28日㈰はこの街で開催される「クラフトフェアまつもと」なるお祭りを目指して全国から愛好家がわんさか訪れる。駅正面から会場の「あがたの森公園」まで延びる道は、列をなすといっていいくらいの人出である。ついでに、「ちきりや」などがある中町通り、縄手通りあたりも混雑を極める。
ちょうどこの期間、第71回全国大会があった。よそから参加した会員が80人、地元の参加者が40人、去年の東京大会が全部で110人で、このところの参加者数はこんなものである。総会、懇親会の会場は、たぶん松本でいちばん大きなホテル「ホテル ブエナビスタ」であった。
全国大会とはいうものの、運営に関する諸々については、前日(26日)の全国理事会ですでに決定しており、総会はその発表を聞くというか追認するというかの機関になる。であるから、大会はやらなくてはならないが、どちらかというと年に一度の交歓の場になる。
これについて、お祭り騒ぎで下らんという批判も当然ある。また開催協会の負担が大きくて、引き受けられる協会が限られてくる。そんな理由から、近年は全国大会を地方で開催するのは止めて、事務的に東京でやったどうかという意見も出てくるようになった。
-------というようなこともあるのだが、松本大会は豪華、盛りだくさんの大会であった。大会そのもののほかに、「信州の手仕事展」を主催、さらに市立博物館、松本民芸館などで関連の展覧会を行った。また、大会冊子に加えて、『信州民芸』という小冊子も発行した。2冊は、柳、リーチ、池田三四郎らの事績、松本との縁を紹介するなどの内容で、企画から装丁まで立派なものである。広告もたくさん入っているからすごい。これら一連の行事、刊行物を拝見すると、長野県協会には有力者や優秀な会員がたくさんおられることがうかがえる。にしても、ここまでに漕ぎつけることは大仕事、大変な時間と手間とお金がかかっているだろう。深澤会長、滝沢理事以下会員の皆さまに深く感謝したい。
さて、所定の総会議事である。実は今期が協会役員の改選年であった。また、昨年来会則の見直し、変更が検討されていた。この変更に基づいて、会長以下の人事が決定された。会長は金光章氏(岡山県協会)に代わって、曾田秀明氏(青森県協会)が就任した。専務理事は当協会の佐藤阡朗氏が留任、他の理事にも入れ替えがあった。さらに新しく委員会なるものを3つ作って、活動の活性化をはかることになった。
協会の財政は特別協力金を加えてなお毎年250万円程度の赤字が続いている。保坂事務長のお話では、このままの状態ではあと5年くらいで資金不足になるという。長期低迷は今に始まったことではないが、いよいよ切羽詰まった感がある。新任の役員はこれから3年の間に、思い切った対策をたてて実行していかなくてはならない。困ったことに、私も役員で留任しなくてはならなくなった。30年ばかり前に一愛好家として、しかも金も目もない素人で入会しただけなのに大変なことになっている。憂鬱である。

議事終了後、柏木博氏「心地よい暮し」と近藤誠一氏「日本人の心と技」の2講演があった。前者は「玩物草子」という著書があるくらいのもの好きな方で、好きなものや中村好文氏の設計になる自邸の紹介があった。「様式の統一感が心地よさをもたらす」という言葉が記憶に残っている。後者は西欧的自然観と比較しての日本人の自然観の解説。
懇親会で最初に歌手上条恒彦が登場、上条は松本周辺に多い苗字であって、やはりこの辺りの出身だという。高校生のころかの「まるも」に出入りしていて、民藝を知ったとのこと。70歳半ばにしては体格のいい人で、そこからあの声が出る。「だれかが風の中で」と「生きていくと言うことは」を聞いた。よかった。
写真は記念品の三代澤本寿の型染め手ぬぐい、中央アルプスの図柄だという。
ちょうどこの期間、第71回全国大会があった。よそから参加した会員が80人、地元の参加者が40人、去年の東京大会が全部で110人で、このところの参加者数はこんなものである。総会、懇親会の会場は、たぶん松本でいちばん大きなホテル「ホテル ブエナビスタ」であった。
全国大会とはいうものの、運営に関する諸々については、前日(26日)の全国理事会ですでに決定しており、総会はその発表を聞くというか追認するというかの機関になる。であるから、大会はやらなくてはならないが、どちらかというと年に一度の交歓の場になる。
これについて、お祭り騒ぎで下らんという批判も当然ある。また開催協会の負担が大きくて、引き受けられる協会が限られてくる。そんな理由から、近年は全国大会を地方で開催するのは止めて、事務的に東京でやったどうかという意見も出てくるようになった。
-------というようなこともあるのだが、松本大会は豪華、盛りだくさんの大会であった。大会そのもののほかに、「信州の手仕事展」を主催、さらに市立博物館、松本民芸館などで関連の展覧会を行った。また、大会冊子に加えて、『信州民芸』という小冊子も発行した。2冊は、柳、リーチ、池田三四郎らの事績、松本との縁を紹介するなどの内容で、企画から装丁まで立派なものである。広告もたくさん入っているからすごい。これら一連の行事、刊行物を拝見すると、長野県協会には有力者や優秀な会員がたくさんおられることがうかがえる。にしても、ここまでに漕ぎつけることは大仕事、大変な時間と手間とお金がかかっているだろう。深澤会長、滝沢理事以下会員の皆さまに深く感謝したい。
さて、所定の総会議事である。実は今期が協会役員の改選年であった。また、昨年来会則の見直し、変更が検討されていた。この変更に基づいて、会長以下の人事が決定された。会長は金光章氏(岡山県協会)に代わって、曾田秀明氏(青森県協会)が就任した。専務理事は当協会の佐藤阡朗氏が留任、他の理事にも入れ替えがあった。さらに新しく委員会なるものを3つ作って、活動の活性化をはかることになった。
協会の財政は特別協力金を加えてなお毎年250万円程度の赤字が続いている。保坂事務長のお話では、このままの状態ではあと5年くらいで資金不足になるという。長期低迷は今に始まったことではないが、いよいよ切羽詰まった感がある。新任の役員はこれから3年の間に、思い切った対策をたてて実行していかなくてはならない。困ったことに、私も役員で留任しなくてはならなくなった。30年ばかり前に一愛好家として、しかも金も目もない素人で入会しただけなのに大変なことになっている。憂鬱である。

議事終了後、柏木博氏「心地よい暮し」と近藤誠一氏「日本人の心と技」の2講演があった。前者は「玩物草子」という著書があるくらいのもの好きな方で、好きなものや中村好文氏の設計になる自邸の紹介があった。「様式の統一感が心地よさをもたらす」という言葉が記憶に残っている。後者は西欧的自然観と比較しての日本人の自然観の解説。
懇親会で最初に歌手上条恒彦が登場、上条は松本周辺に多い苗字であって、やはりこの辺りの出身だという。高校生のころかの「まるも」に出入りしていて、民藝を知ったとのこと。70歳半ばにしては体格のいい人で、そこからあの声が出る。「だれかが風の中で」と「生きていくと言うことは」を聞いた。よかった。
写真は記念品の三代澤本寿の型染め手ぬぐい、中央アルプスの図柄だという。
(藤田)
posted by 東京民藝協会 at 01:27| Comment(0)
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