2013年10月12日

映画「セデック・バレ」に見る台湾の民芸

日本の植民地時代におこった「霧社事件」の映画である。2年ばかり遅れて近所の映画館にやってきたので見てきた。4時間半の大作で、何しろ首狩りをして一人前という男たちが日本の植民地政策に対して反乱を起こす映画だから、全編血の雨である。日本人としてはやりきれないところで、最近評判だった映画「台湾アイデンティティ」を見るようなわけにはいかない。

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それをおいて言うと、男たちは短い白の上着に黒いふんどし、腰に短い刀を帯びて、はだしで山野を駆け巡る。これが実に格好いい。そして必ず背には例の袋が背負われている。例のというのもおかしいが、ひところその袋を見ると民藝協会会員だとからかわれるくらいみな持っていたもので、狩った首を入れる袋と聞いていたのだが、その説が正しいことがわかった。女は、口から下を入墨で黒く染めて、赤い長着を着ている。この赤が渋くて美しい。
 
それらの衣装、袋、籐の籠、竹の椅子などなど、いま台湾では作っていないのではと勝手に思い込んでいたものがたくさん出ている。どこかでまだ作っているのだろう。また、合唱や口琴もすごい、素晴らしい。

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映画は台湾原住民族の力強さと誇りを描いたものであり、民藝の話なんかではないのだが、恐縮しつつちょっと紹介いたしました。機会があったら見てみて下さい。ただし胎教にはよくないです。
(藤田)

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2013年09月24日

編組品2つ

このブログの原稿が少なくて、次の「東京民藝協会たより」ができるか心配になったので、間に合わせにこんなものを書く羽目になりました。

私有物の紹介で、わざわざ紹介するのもはばかられるようなものですが、一つは一般にパイスケと呼ばれる深いざるです。長野県諏訪の国道20号沿いには作り酒屋が5、6軒飛び飛びですが並んでいて、でそれとは関係ないのですが、そのあたりに荒物屋があって、これが5枚ばかり重なってました。直径40センチ、深さ20ンチくらい、1800円くらいだったか、買ってしまいました。
店の人が言うには、戸隠あたりで作られたもののようで、ビニールでできたものとはもちが全然違うとのこと。ビニールざるに砂利や石を入れて、どんと投げ出したらすぐだめになるでしょう。

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力がかかって傷みやすい底の中央と、立ち上りあたりを根曲り竹の皮のほうを使い、間を内側の身のほうを使って編んでいる。縁は2本の丸のままを回して、表側の皮のほうで縁巻きをしている。
少し前までは当たり前にあったものだが、いまはあまり見かけなくなりました。なんでもないもので、素材の美しさと自然な形の良さがあると思います。


もう一つの写真、今年の夏はやたら暑かったのでたまに帽子をかぶりましたが、村上氏のような上等の帽子は似あいっこないのでこれを取り出しました。10年以上前になりますか、田中擁子さんたちの中国旅行について行ったとき、建設現場の人たちはもっぱらコレでした、つまりヘルメット。竹の足場にこのヘルメットが当たり前でした。市場にはこれが高く重なっていたものです。今はどうか、たぶん樹脂製のヘルメットが安いから、姿を消しているかもしれません。

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素材は杞柳みたいな木の軸、それを半球型に並べて麻糸で平織状に編んでいます。縁は杞柳の太いやつの皮、そんなものがあるかどうか、まあそんなやつを隙間なく巻いている。中側はというと、厚い綿布をやはり半球状に、ただし外側より少し間をあけて小さめなやつをくくりつけてある。気やすめだがクッションになっている。
風が通って涼しいです。いいものです。さて、これどうやって作るのかわからないのです。
(藤田)

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2013年08月27日

「第143回 日本民藝夏期学校 沖縄やんばる会場」に参加して

沖縄夏期学校3回目の今年は、読谷・竹富に続き、やんばる(大宜味村)で催されました。

6月28日の午後から名護市の会場で開校式が行われ、東京民藝協会の会長志賀直邦氏の挨拶などの後、「柳宗悦のいう『自然』について」松平健氏の講義がありました。
「自然」という語の意味を対義語(例えば「自然物」と「人工物」)との関係から捉えることから入り、「自然」の多様性について話され、工芸における「自然」、信仰における「自然」、そして美しいものを発見する「直観」について語られました。ものつくりや発見における「自然」は囚われない自由の境地、修行と達成、日々の精神であるのではないか…と。
夜の懇親会では、名護市文化協会の協力により、「綛かせ掛かけ」「花風はなふう」「谷たに茶前ちゃめー」の琉球舞踊の鑑賞をしました。踊りの後は衣裳の説明などがあり、沖縄の夜を満喫しました。

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2日目は大宜味村喜如嘉で、「芭蕉布について」平良美恵子氏の講義があり、制作工程のビデオを見ながら、芭蕉布にまつわるお話を糸づくりから歴史や現状までたっぷりと聞くことができました。実.芭蕉はバナナ、糸.芭蕉は芭蕉布の材料、花.芭蕉は実芭蕉や糸芭蕉とはことなる深紅の花が咲くということも初めて知りました。
昼食は地元の方の手づくり弁当、沖縄食材たっぷりの「椿寿御膳」です。
午後は、暑い中、私達の為に芭蕉畑での作業(説明も)見せて下さいました。その後、芭蕉会館で糸を撚る、染める、織る工程を目の前で見せていただいたうえに、なんと平良敏子氏にお会いすることができたのです。繊維を一本の糸に結んでいくお姿をそばでみることができたうえに、お話ができ、私にとってがこのうえない喜びでした。それはそれは優しいお姿に大感激!
次に登り窯や大宜味村陶器事業協同組合の4つの工房を見学した後、古我知焼工房を見せていただきました。沖縄の焼き物に触れることができ、又、温かいもてなしを受けたこと、ありがとうございます。

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3日目の最終日は、久高将和氏「やんばるの自然と文化の系譜」と真栄城興茂氏「琉球藍について」の講義です。
写真家である久高氏はやんばるの樹木や生物の珍しい貴重な写真を中心に話されましたが、私自身、生物と人の暮らしについて考えさせられた時間でした。沖縄民藝協会会長でもある絣織の真栄城氏は、藍葉の苗の植え方から刈り取り、浸け込み、抽出液…と琉球藍独特の染め方について話して下さいました。


今回の夏期学校で感じたことは、物をつくるまでのひとつひとつの工程の大切さ、どれひとつとっても手を抜くことができないということ。一人ひとりの努力の積み重ねが心にしみました。
学んだことは勿論ですが、今までの夏期学校で出会った人との再会を喜び、今回親しく言葉を交す人と出会え、私にとって十年ぶりに会う沖縄の大切な友と一緒に過ごすことができた夏期学校は最高の旅でした。

沖縄民藝協会の皆様、本当に本当にありがとうごましました。

(石川 廣美)
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2013年07月21日

蕎麦居酒屋 こだか に参加してきました

6月30日に「蕎麦居酒屋 こだか」小高千繪陶展の小高さんとのお食事会へ参加しました。
場所は三浦海岸三崎口の「うつわとくらしsol」
諏訪出身の小高さん、ということで蕎麦居酒屋をイメージして、皆さん着物か和装での参加。出張お蕎麦屋さんのおいしい料理のフルコースがが一品一品小高さんの器に盛られ登場しました。

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どれも白磁にぴったりで、器と料理はこれほどまでに引き立つのか!
と眼にも心にも楽しいひとときでした。
民藝のこころを感じ、家でもなるべく実践しようと思いました。
ばったり?尾久さんともお会いすることができ、再会を楽しみました。
小高さん、ありがとうございました。
安藤由記(静岡はセミがにぎやかです)


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2013年07月11日

品川区来福寺の「阿波(あわ)藍(あい)商人墓標群」

東京民藝協会では六月例会に幹事志賀直邦、村江菊絵両氏の下に岡倉天心縁の地を訪問した。詳細は別な方が報告されるので省略しますが途中のバス移動中は、事務局の藤田邦彦氏が世界の古代から現在までの藍染めの歴史ビデオで1時間上映してくれた。大変に好評で藤田氏の心使いに大きな拍手でした。協会の方はご存じないと思いますので、拙宅から近くに江戸期に藍を江戸市中に広めた人々の墓標が有って現在でも商われる方は往時を偲び感謝の念でお参りにこられる場所があります。区の歴史資料にも指定されていますので紹介します。

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海賞山地蔵院来福山(東大井3ー13ー1)はJR大井町駅きゅりあんから見晴らし通りにでて徒歩約10分。
戦災で多くは失ったが創建は、真言宗の僧知辨が平安中期正暦元年(990)。北条の幕下にあった梶原一門との関係から梶原桜、延命桜、江戸期は春日の局の植えた桜の名所で、 墓地の中程に平成22年7月区歴史資料第6号指定の阿波藍商人墓標群が見られ60余基(外面確認は35基)の墓標が写真のように構成されている。 若者は藍色といえばジーンズを思い浮かべるが日本を代表する色で明治7年東大の前身開成学校に招かれた英国の化学者アトキンソンが「ジャパンブルー」と呼んだり、ラフカデイオ・ハーン(小泉八雲)が青い暖簾に藍色を日本の面影として捉えていることは知る人は少ない。平安期の儀式制度を定めた「延喜式」に藍染めの言及や、日本書記には継体天皇の陵を「藍の陵」と呼び付近に藍の栽培を示唆している。強靭で防虫効果もある藍染めは、その色が親しまれ濃淡の表情は染め方や経年変化で味わいを生み出し藍四十八色と表現され、心の安らぎを感じさせ藍、麻、紅花は三草といわれた。阿波蜂須賀徳島藩は江戸期22万石であったが日本三代河川で四国三郎の異名を取る暴れ川吉野川の肥沃な砂地での阿波藍の生産は実質45万石であった。明治36年の最盛期は藍草の作付面積は徳島県内の23%に達した。墓標群は、本八丁堀(現中央区八丁堀)に大店を構えた藍商人大坂屋庄三郎(本名久次(くじ)米(め)兵次郎)家の関係者のものである。明治後期にドイツから安価な化学染料の輸入で一気に衰退の道を歩んだ。昭和2年(1927)道路拡張工事のため、場所を移し合奏された。徳島藩を支えた阿波藍の江戸の出先として品川との関係を示す歴史資料で藍染めのジャパンブルーに思いを馳せていただきたい。
(会員  田部隆幸)
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2013年07月04日

熊本県三角西港探訪記

今年の全国大会は熊本市で六月七日、八日の両日開催されました。
 小生は翌日の九日(日)、熊本市近郊の三角西港を訪ねた。
 この港は明治二十年に竣工した、地方の近代港湾施設であります。
 当時日本の近代化、西欧化の諸施設はお雇い外国人の技術指導で設計・施工されたものが多い。
 鉄道ではモレル、建築ではコンドル、河川ではデ・レーケ、港湾ではこの三角西港を設計し、技術指導したオランダ人エンジニアのルーエンホルスト・ムルドル等の活躍が大きい。
 この港の岸壁、排水路、道路等は九州地方で高い技術が保たれていた石積の施工が見事な出来栄えである。(内陸部に於いては多くの石橋築造技術に石工の技が見られる)。
 石材は対岸の大矢野島より切り出された砂岩を主材に用いている。
 石積みは緻密で石と石の間の目地も細かく、当時の石工の高い技術が良くあらわれている。
 港では、麦、硫黄、石炭を中心に中国大陸に輸出されたが、その活用期間は約三十年間程であった。
 この港は鉄道線に接していないこと、鉄道の三角線は宇土〜三角間が明治三十二年の全通であり、終点の三角駅と西港は3キロメートル程離れており荷役、通運の利便性に劣ること、また石炭は近代荷役設備のある三池港へ、麦、硫黄、雑貨類は鉄道ターミナルに接した三角東港に移り、大正期に入ると港湾の役目は終えている。
 その後は新たに開発もなかったため、当時の姿を良くとどめている。
 現在は漁港施設となっている。当地探訪時は日曜であり、釣り人が多く疑似餌で蛸釣りをしていた。何とも長閑な風景であった。
(会員 伊奈紘三郎)

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2013年06月28日

「モノよりココロ、か」 全国大会理事会ではなしあったこと

第67回日本民藝協会全国大会の初日に行われた全国理事会で、金光会長が「山陽民藝」251号にお書きになった「全国大会を倉敷に迎えます」という文章について若干の討議が行われた。東京協会の皆様にも知っていただきたいと考え、以下に報告のような感想のようなものを書きます。

金光会長の文章に対して出雲民藝協会の有志の方々から、「請願書」という形をとって疑義が提出されたということであった。
金光会長のご意見は、いまや身辺から手仕事が減ってしまったのだから、手仕事を中心に据える民藝の視点を変換させなければならないのではないか、「民藝に学ぶべきはモノよりココロ、(そして取り組むべき課題の中心は-----引用者補足)端的に言って我執から離れることです」という趣旨である。
これに対して出雲民藝協会の有志の方々が、手仕事は衰退していない、むしろ流通等の進歩により手仕事にとって有利な状況も生まれているとして、「民藝においてコトとモノ、そしてココロは一如であります。私達は、すこやかにあたたかい仕事に向かって働き、それぞれの心の精進にひたすら励むほかはございません」と結んでいる。

金光会長が仰るように、一般的に言って手仕事の衰退という現状認識は否定できないだろう。また、会長に限らず、古くから民藝に関心を持ち、残り時間のほうが少なくなった人にとっては、モノを増やすより整理する段階に至っていることも事実であろう。その限りでは「モノよりココロ」は当たっているが、これを押しなべて一般化することはできないのではないか。一足飛びに「モノよりココロ」と言ってしまうのは誤解を招くのではないか。衰退しているからモノについて語るのをやめる、というふうに誤解されないだろうか、というのが私の感想であった。

たとえば外村先生の言葉、「健康で、無駄がなく、真面目で、威張らない」は直接には民芸品、モノのあり方を表したものでありながら、同時に人間の心のあり方をも指し示したものである。モノを語ることが同時に心を語ることになっている。我々は、モノを見たり使ったりして心に喜びを感じ、慰めを得、ある場合には人間がつくたものでありながら人間を越えたなにかを感じることさえある。これをモノとココロというように二分して、どちらかが主でどちらかが従と決めることは困難である。

心というものはどんなものかどこにあるかよくわからないものである。出雲の有志の方々が「働き、心の精進に励む」とおっしゃるように、見えない心は見える何かほかのものと一緒にあってそれと知られるものだ。しかも、働くことが手段で、心の精進に励むことが目的、ということではない。働くことと心の精進は同じことである。------浅学でうまく説明できないのだが。ある作り手が、「心無くしてモノは作れないし、物はココロを作ってくれるものだ」とおっしゃったが、至言であろう。
したがって、ココロが満たされればモノはどうでもいいというようなことは初めからありえない。また、我執から離れようと抽象的に念願したところで、それだけではどうにもならないのである。

金光会長の文章は、全体としては「モノよりココロ」という一言から速断するような内容ではないが、象徴的な言葉としてそこだけが取り上げられる可能性がある。言い換えや補足があったほうがいいのではないか、と私も出雲の皆様と同じように考える。

それはそれとして、金光会長の文章の背後に、直接的な言葉はないが、絶望感、無力感のようなものと、モノに執着しすぎる民藝愛好家への批判があると感ずる。急速に変わっていく世の中の流れになすすべがなく立ち尽くす我々であり、外界への関心をもっぱらモノに集中させて、いわば玩物喪志状態に陥っている我々である。我々とは自分自身のことであり、福島原発事故以来、そのことが強く感じられてならない。               

(藤田邦彦)

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2013年06月15日

第67回全国大会熊本大会 追記

すみません、全国大会の報告写真一枚落としました。

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先に載せていただいた全国大会の報告中、外村先生の言葉が掲示されていたと書いたのですが、それをお送りしませんでした。これです。
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2013年06月13日

第67回全国大会熊本大会

6月7日、8日、熊本で全国大会があった。7日は、記念講演が2つ、竹熊宣孝さんという医者の「見えるお金 見えない命」、深澤直人日本民藝館館長の「民藝とデザイン」と夜の宴会、8日が研修?旅行であった。

竹熊という珍しい苗字で変わった医者が熊本にいることを知ったのはかなり昔で、今では珍しくもないが、手術や薬漬け一辺倒の病気治療がいかんと言い出した医者のはじめのころの人だった。当時は野人然とした風貌であったが、壇上の氏はすっかりお年を召して、穏やかで自由自在のおじいさんといった風である。当然話も面白くて、しかし私はうつらうつらしながら聞いていたらしく、内容はほとんど覚えていないので省略せざるを得ない。

深澤館長のお話、内容は今年初めに民藝館で行われた講演の延長といっていいだろう。氏の何気ないが新鮮なデザインについて、あるいは工芸、民藝、デザインが目指すべき方向について、「なかったけれど知っていたもの」「暗黙の予測」という言葉で縷々説明をして下さった。文化を共有する人々の頭の中に、共通のある形、あるものが眠っている、それを眼前させるのが工芸、民藝、デザインである。かくしてその形、ものは「ふつう」に至る、というようなお話であった。前回の講演もそうだったが、喩や言い回しが卓抜で感心した。
後半は、「ファウンド ムジ」の商品紹介、氏は世界各地に出向いて収拾をしているとのこと、見る人が見ると発見があるものである。

8日は、朝まず熊本国際民藝館に行った。外村民彦氏によれば、外村先生がこの民藝館をお作りになったのは、70歳近いころだったそうである。その外村先生がお亡くなりになって20年たつ。2階の展示は先生がいらしたころのままとのことで、お書きになった字もあちこちに見られた。中でも、写真の書は------これは大会パンフレットからとったものだが、実物が1階奥の畳の間に掲げられていて、見るものを叱咤する如くである。

それからバスはあちこち走り回って、肥後の石橋をたくさん見せて下さった。「工芸きくち」の菊池さんがあまたある石橋の中から選んでご案内下さったものである。草深い田舎にこんなにたくさんの石橋があることに驚かされるが、創建当時は相当な賑わいをみせたことだろう。今はどの石橋も緑滴る風景の中にある。場所場所で、また車中での解説は、菊池さんの自然や工芸に対する並みならぬ造詣の深さと情熱が自然にあふれるものであった。

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書き忘れたが、熊本城近くの「県伝統工芸館」では「九州の民藝展」が開催されていた。多くは菊池さんが集めたものだそうで、なかでも金城次郎や苗代川が見事であった。収集に纏わる話もたくさんお聞きしたが、割愛する。

なお、東京協会の参加者は志賀会長、佐藤副会長、外村、伊奈、竹村ご夫妻、大島、横森ご夫妻、藤田であった。
(藤田)

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2013年05月24日

民藝館、アイヌ工芸展の講演会

日本民藝館では、現在「アイヌ工芸 祈りの文様」という展覧会が行われている(6月2日まで)。また、先頃は、銀座たくみで「アイヌ工藝展」があり、高野繁廣さんという製作者のお話会があって(4月20日)、たくみの豊岡さんがこのブログに紹介をして下さった。5月18日には、日本民藝館で、二風谷アイヌ文化博物館学芸員の長田佳宏さんの講演会があった。私はたまたまその両方を聴講したので、ちょっと紹介したい。ブログの記事が少ないので駄文を弄する次第。
 
高野さんは二風谷在住、長田さんはそこにある博物館の学芸員である。一昔前までは、アイヌのコタンを代表する場所としては白老が挙げられていたような気がするが、今は二風谷のほうが有名かもしれない。長田さんが勤務しておられる「二風谷アイヌ文化博物館」は、年間2万人の入場者があるという。二風谷がそんな風になったのは萱野茂のおかげも相当あるのではないか。アイヌの指導者は萱野さんだけではないが、「彼はたくさん本を出しましたからね」とは長田さんの言である。「アイヌの碑」は涙なくしては読めない名著だし、「アイヌの民具」は高野さんの製作の基礎資料で、それに代わるものはないということだ。
 
長田さんの講演「アイヌ工芸にみる文様の変遷」は、本展の表題「アイヌ工芸 祈りの文様」にうまく合った演題であった。「祈りの文様」とはうまい題をつけたもので、アイヌの文様は特徴的衝撃的であるばかりか、ある神聖さを感じさせる。こんな文様がどうして生まれたのか、どんな意味があるのか、どうやって作るのか、いろいろな疑問がわいてくることは当然で、講演後そういう趣旨の質問が多かった。これに対して、長田さんは「よくわかりません、いろんな人がいろんなことを言うが」という。

インターネット上では、ある図柄を指して「シマフクロウの目」などと書いている例も珍しくなくて、そうすると長田さんがいうようにわからないのか、それともいくらかは明らかなのか、多少の疑問も生まれるのである。
考えてみれば、模様、文様にはいかようにも名づけ、意味づけが可能で、いつの間にかとんでもないこじつけが跋扈することにもなりかねない。長田さんは学問的にいい加減なことを言うことができなかったのだろう。
それはわかるのだが、しかし、文様の製作とその伝承には名づけとそれに伴う意味づけが必ずついて回るものである。原初、当初のものが失われたとしても、現存の名づけ意味づけにもそれなりの根拠があるはずで、それはアイヌの世界観を反映したものではないだろうか、と素人は思うのだが。

さて、これらのアイヌ衣装、木の工芸品は、「江戸時代後半のころ、対和人の需要が高まって急速に洗練されていく」というのが、長田さんの説明であった。そして「和人から名工と呼ばれたり、名産地とされた場所が数多くある」「和人がアイヌ工芸品に芸術性をみていた」という。ということは、江戸の文化人の間には、蝦夷地へのエキゾチズム、アイヌの文物ブームが生まれていたのだろう。かの地を訪れ紀行文を残した人も数多い。蝦夷絵(アイヌ風俗画)も盛んに描かれた。

ただここに恐ろしい問題がある。アイヌの文物を貴重とすること、エキゾチズムがアイヌに対する蔑視、差別と併存したのである。流行歌「イヨマンテの夜」「黒百合の歌」「北海の満月」などの歌詞には、身勝手で無恥なエキゾチズムが横溢している。「岩陰によればピリカが笑う」だって怪しい。流行歌にとどまらず、学問の世界にもそれがあったようで、北海道大学のアイヌ遺骨問題はその象徴であり、いまだに決着がついていない。

私どもは、ただアイヌの工藝に感心しているだけではいられない問題があることを知るべきだろう。柳宗悦が台湾先住民の布についてふれて、「これらを美しいという人は珍しくないが、それを作った民族について考える人は少ない」というようなことを書いていたが、同じことがアイヌの工藝についても言えるのである。

目の前のアイヌ衣装、針がなくてはできないのだが、これが実に貴重なものだったという。高野さんの話では、家に1本、さらには共同で1本なんてことも珍しくなかった。和人に一冬こき使われて、その報酬が針1本、漆塗りの椀1つ、なんてことだったそうだ。長田さんは、松前藩が、アイヌへの鉄の供給を制限した結果だという。ともかくその貴重な針で、一針一針刺していったものがアイヌの衣装であり、気の遠くなるような過程を経ているのだ。

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写真は、その貴重な針の入れ物である。講演会の後、長田さんを囲んで渋谷でビールを飲んだ時、秋田協会の三浦さんがたぶんアルコールの勢いで下さった。針を見失ったアイヌ女性は血眼になって探したものだろう。そう考えると、この針入れが大切なものに思われる。
それと無関係だが、三浦さんによると、今から20年くらい前には、秋田の八森あたりでアイヌの衣装の古びたのを見ることがあった、観賞用でなくて実際に着ていたもの、とのことである。去年の全国大会の茶席で、京都の小谷会長が古いアイヌの盆を紹介して下さった。オヒョウの反物を本州で入手した好事家も珍しくない。アイヌの工芸品が本州にも広く及んでいた証拠かと思われる。
(藤田)

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