日本民藝館では、現在「アイヌ工芸 祈りの文様」という展覧会が行われている(6月2日まで)。また、先頃は、銀座たくみで「アイヌ工藝展」があり、高野繁廣さんという製作者のお話会があって(4月20日)、たくみの豊岡さんがこのブログに紹介をして下さった。5月18日には、日本民藝館で、二風谷アイヌ文化博物館学芸員の長田佳宏さんの講演会があった。私はたまたまその両方を聴講したので、ちょっと紹介したい。ブログの記事が少ないので駄文を弄する次第。
高野さんは二風谷在住、長田さんはそこにある博物館の学芸員である。一昔前までは、アイヌのコタンを代表する場所としては白老が挙げられていたような気がするが、今は二風谷のほうが有名かもしれない。長田さんが勤務しておられる「二風谷アイヌ文化博物館」は、年間2万人の入場者があるという。二風谷がそんな風になったのは萱野茂のおかげも相当あるのではないか。アイヌの指導者は萱野さんだけではないが、「彼はたくさん本を出しましたからね」とは長田さんの言である。「アイヌの碑」は涙なくしては読めない名著だし、「アイヌの民具」は高野さんの製作の基礎資料で、それに代わるものはないということだ。
長田さんの講演「アイヌ工芸にみる文様の変遷」は、本展の表題「アイヌ工芸 祈りの文様」にうまく合った演題であった。「祈りの文様」とはうまい題をつけたもので、アイヌの文様は特徴的衝撃的であるばかりか、ある神聖さを感じさせる。こんな文様がどうして生まれたのか、どんな意味があるのか、どうやって作るのか、いろいろな疑問がわいてくることは当然で、講演後そういう趣旨の質問が多かった。これに対して、長田さんは「よくわかりません、いろんな人がいろんなことを言うが」という。
インターネット上では、ある図柄を指して「シマフクロウの目」などと書いている例も珍しくなくて、そうすると長田さんがいうようにわからないのか、それともいくらかは明らかなのか、多少の疑問も生まれるのである。
考えてみれば、模様、文様にはいかようにも名づけ、意味づけが可能で、いつの間にかとんでもないこじつけが跋扈することにもなりかねない。長田さんは学問的にいい加減なことを言うことができなかったのだろう。
それはわかるのだが、しかし、文様の製作とその伝承には名づけとそれに伴う意味づけが必ずついて回るものである。原初、当初のものが失われたとしても、現存の名づけ意味づけにもそれなりの根拠があるはずで、それはアイヌの世界観を反映したものではないだろうか、と素人は思うのだが。
さて、これらのアイヌ衣装、木の工芸品は、「江戸時代後半のころ、対和人の需要が高まって急速に洗練されていく」というのが、長田さんの説明であった。そして「和人から名工と呼ばれたり、名産地とされた場所が数多くある」「和人がアイヌ工芸品に芸術性をみていた」という。ということは、江戸の文化人の間には、蝦夷地へのエキゾチズム、アイヌの文物ブームが生まれていたのだろう。かの地を訪れ紀行文を残した人も数多い。蝦夷絵(アイヌ風俗画)も盛んに描かれた。
ただここに恐ろしい問題がある。アイヌの文物を貴重とすること、エキゾチズムがアイヌに対する蔑視、差別と併存したのである。流行歌「イヨマンテの夜」「黒百合の歌」「北海の満月」などの歌詞には、身勝手で無恥なエキゾチズムが横溢している。「岩陰によればピリカが笑う」だって怪しい。流行歌にとどまらず、学問の世界にもそれがあったようで、北海道大学のアイヌ遺骨問題はその象徴であり、いまだに決着がついていない。
私どもは、ただアイヌの工藝に感心しているだけではいられない問題があることを知るべきだろう。柳宗悦が台湾先住民の布についてふれて、「これらを美しいという人は珍しくないが、それを作った民族について考える人は少ない」というようなことを書いていたが、同じことがアイヌの工藝についても言えるのである。
目の前のアイヌ衣装、針がなくてはできないのだが、これが実に貴重なものだったという。高野さんの話では、家に1本、さらには共同で1本なんてことも珍しくなかった。和人に一冬こき使われて、その報酬が針1本、漆塗りの椀1つ、なんてことだったそうだ。長田さんは、松前藩が、アイヌへの鉄の供給を制限した結果だという。ともかくその貴重な針で、一針一針刺していったものがアイヌの衣装であり、気の遠くなるような過程を経ているのだ。


写真は、その貴重な針の入れ物である。講演会の後、長田さんを囲んで渋谷でビールを飲んだ時、秋田協会の三浦さんがたぶんアルコールの勢いで下さった。針を見失ったアイヌ女性は血眼になって探したものだろう。そう考えると、この針入れが大切なものに思われる。
それと無関係だが、三浦さんによると、今から20年くらい前には、秋田の八森あたりでアイヌの衣装の古びたのを見ることがあった、観賞用でなくて実際に着ていたもの、とのことである。去年の全国大会の茶席で、京都の小谷会長が古いアイヌの盆を紹介して下さった。オヒョウの反物を本州で入手した好事家も珍しくない。アイヌの工芸品が本州にも広く及んでいた証拠かと思われる。
(藤田)
posted by 東京民藝協会 at 18:43|
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