2025年09月25日

映画「炎はつなぐ」

 投稿がまったくないようなのでまたしても駄文を。-----例によって、映画の紹介ぐらいしかできないのだが。
 「炎はつなぐ」という映画が公開された。監督は大西暢夫。「炎」とは和ろうそくの炎のことで、この映画は、和ろうそくが作られる手順、手仕事のかずかずを追ったものである。
 ろうそくの原料はハゼの木の実である(漆の実も使われた)。これを高い木に登って採集、集まった実を蒸して圧搾、油をとる。実の殻が残るがそれは藍染の土間を温めるために使われる。低い温度で長持ちするので具合がいいのだそうだ。さらにその灰が焼き物の釉の原料となる。映画に映っているハゼの灰は、小鹿田に行くのだそうだ(映像はない)。
 ろうそくの芯は竹の串に和紙を巻き、その上から燈心草の髄をらせん状に巻いて、さらに真綿で全体を包む。その芯をハゼの油を溶かした液に浸すことを繰り返しだんだんと太くしていく。最後に上下を切って形を整える。和ろうそくの炎は揺らぐことが特徴とされているが、これは、芯が中空でそこを空気が上昇するからだという。----前後するが、和紙を巻く芯の竹串は後で抜くので、そこが中空になる。

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出典:「炎はつなぐ」特別サイト(https://honoowatsunagu.com

 この映画は、実の採集に始まって、油の採取、和紙、燈心草、真綿による芯づくり、成型まで、それぞれの過程を丹念に追ったものである。和ろうそくの制作と言えば、普通は。溶けた蝋の中に棒を突っ込んで、だんだんと太くしていく最終の成型の場面しか思い浮かばない。が、実は一本のろうそくができるまでには、多くの職種が関与し、かなりの労働が注がれている。それぞれの職種には膨大な技術の蓄積があり、その技術の継承には長年の修行が必要だ。何でもないような実の採集にしても、まずは採取に最適な時期を選ぶ目が必要だろうし、作業は高い木に上る危険なものである。この後の諸工程に至ってはそれ以上の熟練と労働集約が求められる。どれか一つが欠けても、和ろうそくはできない。しかも、上記の各職種には、さらにそれを支える固有の道具や資材があるわけで、それを作る人たちが存在するということになる。そう考えると、世にある様々なものを成り立たせている仕組みは想像をこえている。
 そんなことを教えてくれる映画であった。注文を付けるなら、前後に登場する監督の車とオートバイに乗る部分は不要だった。また、例えば藍のすくもつくり、墨の油煙つくり、金箔つくりのような-----それはそれとして興味をひくものではあるが、直接関係のないところにかなり時間をつかっており、それが余計だとも思った。どこまでも、和ろうそくの製造の源をたどることが、題名「炎はつなぐ」にふさわしかったのではないか。
(藤田)

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2025年07月27日

瀬戸夏期学校 6月21日〜22日

 第163回民藝夏期学校瀬戸会場が6月に行われた。主催は日本民藝協会と瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム(瀬戸民藝館)、これに私ども東京民芸協会が共催という形でお手伝いをした。瀬戸は民藝館ができたばかりという状態で、もちろん夏期学校などの経験がないので、東京協会が多少でもお手伝いして、愛知もしくは名古屋の民藝協会の再発足等に役立てばいいのではということであった。

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 一年ほどまえ準備のために、野崎会長と本部の村上さん他役員数名で瀬戸に行った。現地側の瀬戸本業窯の水野雄介八代後継、飛騨協会の朝倉圭一さん他と会場等の候補を見て回り、同時に大まかなスケジュールを検討した。最寄りの駅尾張瀬戸駅のすぐ近くに「瀬戸蔵」という瀬戸市の施設があるのでそこを会場とすること、懇親会をやはり近くの「レンタルスペース梅村商店」で行うことを決めた。さらに、ホテル ルートイン瀬戸の部屋を数十室(正しい数字は忘れた)抑えることができた。また、1日目に講演とシンポジウムをできれば公開で行うこと、2日目に瀬戸民藝館等の見学を行うことも決めた。瀬戸蔵は市の施設なので抽選頼みであるが、後日幸いに希望の日を抑えることができた。あとは水野さんとそのご家族、地元の方々のほぼ半年にわたる奔走で実施の運びとなったのである。どのようなことであれ何か行事を実施するためには目に見えにくい仕事と時間が費やされる。この間とくに水野さんは本業に差し障りがあるほどの忙しさだったと想像される。

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 募集を始めると定員60人を上回る応募があり申し込みが遅れた人たちは抽選になった。また公開講座には100人の参加者があり、かくして経費などは予算内に収まったとのことである。なお、東京協会の参加者は20人であった。
 21日の午後、公開講座の講演、瀬戸蔵ミュージアム館長 服部文孝氏の講演「瀬戸の窯業の成立と発展」、濱田琢司氏の進行による4人、朝倉さん、野崎会長、水野さん、南慎太郎さんのパネルディスカッション「民藝が結ぶ地域社会―瀬戸からの発信」が行われた。
 夕方からの懇親会の会場「レンタルスペース梅村商店」は、茶陶の問屋だった建物を催事や宴会に使えるように改装した気持ちのよい施設であった。ここといい、先の南氏が経営する「ますきち」という宿泊施設といい、古い建物を改装して新しい魅力を作り出し、稼げる施設にしているようである。

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 2日目は、瀬戸民藝館と本業窯の見学、あわせて現当主7代目水野半次郎氏の解説付きで最後に登り窯を焚いたときの記録映像の上映があった。水野氏の瀬戸のお話はたいへん面白く興味が尽きなかった。並行して瀬戸蔵ミュージアムの見学、「窯垣の小途」や町内の散策を経て、最後は昼食をやはり瀬戸蔵内のレストランでとって閉校式を行った。
 1泊2日で短い感もあったが、少ない人員で、初めての場所で夏期学校が滞りなく実施できたことはよかったと思う。水野さんをはじめ、瀬戸の若い方々のやる気と能力に感心させられた。
 水野家の皆さま、瀬戸の皆さま、ありがとうございました。
(藤田)

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2025年05月22日

「株式会社まちづくり山上」を訪ねて──暮らしに根付く中津箒

 かつて柳宗悦氏が紹介したように、日本には大正から昭和にかけて、人々の暮らしに根ざした多くの手仕事がありました。しかし時代の流れとともに姿を消してしまったものも少なくありません。そうした手仕事の再興に取り組む人々の営みに迫るべく、私たちは5月10日、神奈川県愛甲郡愛川町中津(旧中津村)にある工房「株式会社まちづくり山上」を訪ねました。ここでは柳川直子さんが中心となり中津箒を製作しています。

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 中津箒の歴史は、幕末に柳川商店の初代・柳川常右衛門が箒作りを始めたことに遡ります。やがて中津村周辺では、箒づくりが一大産業となりましたが、昭和に入り東京オリンピック以降は、日本人の生活がますます西洋化するに伴い、箒の需要は減少し衰退に向かいます。
 「このままでは箒が絶えてしまう」そうした危機感を胸に、家業を再興しようと決意したのが、柳川商店6代目にあたる直子さんでした。彼女は2003年、48歳にして柳川商店の屋号「山上」を冠した「株式会社まちづくり山上」を設立。中津に伝わる技術を活かして作る箒に「中津箒」という名前を与え、素材であるホウキモロコシの栽培から職人育成、体験ワークショップなど、幅広い活動を展開し始めます。
 最初に取り組んだのは、箒づくりに欠かせないホウキモロコシの種の確保でした。直子さんは各地を訪ね歩き、ようやく近隣の高齢者が自家採種していた種を譲り受けることができました。除草剤を使わず手で草を抜き、夏の日差しの下で土と向き合う日々。「草を育てるのがいちばん大変なんです」と直子さんは語ります。虫、天気、草の勢いなど自然の力に翻弄されながらも、なるべく手をかけすぎず、草の生命力と共存する栽培方法を探っています。
 そして直子さんは同時期に、中津箒の復興の準備のために学芸員の資格を取ろうと一念発起し、武蔵野美術大学の大学院に入学します。そこで、後に中津箒の製作面のみならず、その魅力と価値を社会に広める活動に大きな貢献を果たす吉田慎司氏と出会いました。もともと彼は優れたアーチストであり、直子さんは彼の多岐にわたるサポートにより素材や技術への理解も深めることができました。現在も彼は北海道を拠点としながら、毎年夏になると工房を訪れて製作に加わってくれています。

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京都の職人が作った箒

 中津箒の製作には、素材づくりから染色、道具の手入れに至るまで多くの工程があります。多くの道具は工房で自作されたもので、染色にも工夫が凝らされています。「父の代までの箒は、言われた通りに作るだけの“道具”でした。でも私は、“美しい箒”を作りたいんです」と直子さん。美しい箒づくりは、京都の職人が作った見事な箒を目にし、衝撃を受けたことが契機でした。直子さんは、その技を学ぶため実際にその職人の元を訪ねたといいます。「作り方は人の中にしか残っていない。記録には残っていないんです」と語り、人から人へと伝わる「手の技」こそが、ものづくりの本質だと確信しています。
 現在の中津箒は、日本人の暮らしに合わせて進化を遂げています。かつての長い箒に代わり、今はテーブルや椅子のある住空間に馴染む短めの箒が主流に。持ち手の角度なども工夫され、手首に負担がかからない設計です。つまり、使う人の癖を覚えて形が整い、しなやかさを増していくのです。「箒は、使うことで美しくなります」。直子さんの言葉の裏には、単なる造形を超えて、使い手とともに育つ道具への深い信頼があります。

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 そして工房では、現在7人の職人さんが働いていますが、子育て中の人も働きやすいよう柔軟な体制が整えられ、彼らは製作だけでなく販売や畑仕事も含めた全体の仕事に関わります。「昔、この工房ではベテラン職人が偉そうに後輩を指導するような場所だったけれど、私はそんな場にはしたくないんです」と直子さん。かつての封建的な徒弟制度から脱却し、誰もが気持ちよく働ける職場づくりを重視しています。
 中津箒は、単なる掃除道具ではありません。それは、丁寧な暮らしを体現する道具であり、人と人、そして自然との向き合い方を映し出す存在といえます。工房では、今も若い世代とともに新たな箒の可能性を模索しながら、静かに、しかし確かにその営みが続けられています。
(江澤伸子)


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2025年03月15日

「姉様人形と紙雛展」(横浜人形の家)

現在横浜人形の家にて「姉様人形と紙雛展」を開催しております。
郷土玩具の会会長(竹とんぼ)中村浩訳氏 所蔵(鈴木常雄氏 旧蔵)の姉様人形や館所蔵の各地の姉様人形を地域ごとに展示。過去の作品や文献を元に復元されている森春恵氏の全国の姉様人形も展示しております。
https://www.doll-museum.jp

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ー姉様人形とはー
和紙を縮らせ鬢を作り、千代紙などの衣装を着せた紙人形。子どもたちが日常のままごと遊びなどに使う手遊び人形として古くから親しまれていました。江戸末期には社寺の露店や地方の玩具店で郷土玩具として売り出され、地方によって顔を描いたもの、衣装のないものもあり、材料も紙以外に布、草、黍殻(きびがら)、土、練り物、或いはそれらを組み合わせたものなどで製作されていました。

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展示は3月23日(日)まで開催しており、
最終日にはトークイベント
「姉様人形を語る」3月23日(日)14:00〜15:30(事前予約)
登壇者として「日本郷土玩具の会 」会長の中村浩訳氏をお迎えして、姉様人形の魅力と特徴について語っていただくトークイベントがあります。
まだお席があるとのことですので、ご興味のある方は是非ご参加下さい。
幸田冬子(日本郷土玩具の会会員)
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2025年02月01日

福島県の郷土人形 「根子町人形」

 根子町人形を再現製作しております幸田と申します。現在オリジナルの土人形製作をしながら根子町人形の再現製作をし、一昨年から民藝館展にて出品させていただいております。今回、人形について少し書かせていただく機会をいただきましたので、稚拙な文章ですが読んでいただければ幸いです。

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根子町人形 三番叟(福島県立博物館蔵)

 根子町人形は清水町宿(現在の福島県福島市清水町)という奥州街道の宿場町で茶屋兼旅籠屋の仙台屋と隣家吉野家が江戸末期から明治、大正頃まで製作していた土人形です。
こんな伝承が残っています。

(信楽社『根っ子町土人形』より)
 江戸時代末ごろ、仙台堤人形窯元の若い嫁が、舅の嫁いびりに堪えかね、同情する若い腕ききの工人と共に江戸を指して出奔したが、途中清水町宿で女が急病となり、旅籠仙台屋に援われて助かった。逗留中人形師は、堤人形を造り店に並べた。それが評判となり、仙台屋の主人は二人のために屋敷内に工房を作り製作にのり出し、主人もその技を伝授されて自ら窯元となって製作したのにはじまるという


 様々な人が行き交う宿場町ならではのとても興味深いお話です。
根子町人形は素焼きの上に和紙が貼られ、胡粉を塗り、墨、顔料、染料で彩色されています。土人形に和紙を貼るのは割れなど補強で使用する程度ですが、全体に貼る事はなく、これは地元の粘土が荒く脆い為、補強として全体に和紙が貼られたのではないかといわれています。


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根子町人形 小鼓(個人蔵)

 先の伝承の通り堤系ではありますが、製作元に原型が残っていた記録があり、すべて堤人形を転用して製作していたわけではなく、独自の人形が作られていたことがわかります。各地の土人形もそうであったように、製作地の生活環境や文化、また作り手の人となりにより人形は変化していきました。
 根子町人形は絵画的表現に特徴があり、それを北原直喜氏は「軽妙洒脱の美」と評しています。
 (関西郷土玩具研究会『郷土玩具ギャラリー』創刊号・根っ子町人形特集(昭和55年1月発行))
 実際に堤人形、花巻人形、相良人形と見比べるとその雰囲気がわかるかと思います。
 その後、地元の人や宿場町を行き交う人々、行商先の人々により人形が売られていきますが、明治20年の東北線開通、陸上交通機関の発達により清水町宿は衰退し、またブリキ製の新興玩具などにおされ、養蚕農家が求めた蚕神の製作を最後に大正頃には根子町人形は作られなくなりました。

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三宝持ち(再現)

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鯛乗り恵比須(再現)

 なお、根子町人形について、菅野真一氏(宮城県白石市の郷土史家・こけし研究家)の推薦により東京民藝協会発行の「民藝手帖」228号(昭和52年5月)に福島市史編纂室長であった大村三良氏が執筆されています。
 この東京民藝協会とのご縁により全国に根子町人形が知られることとなりました。 
幸田冬子(土人形製作者)


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2025年01月31日

新年のご挨拶

会員の皆さま
 新年おめでとうございます。本年も民藝協会活動へのご理解とご協力、引き続きのお力添えをよろしくお願いいたします。会員の皆さまとともに会を盛り上げてゆくべく、役員一同様々な楽しい役に立つ企画を考えてまいります。
 昨年9月から始めた「白崎俊次氏撮影フィルムのデジタル化への募金」について、お陰様をもちまして1月末で目標金額500万円をなんとか達成することが出来そうです。本当にありがとうございました。デジタル化の保存を完了させ、民藝に関わる全ての方へ活用していただきたく、アーカイブス化のやり方なども検討してゆきたいと思います。そして、この画像データを使用した出版物の刊行も進めてまいります。どうぞ楽しみにお待ちください。
 先日、日本民藝館「仏教美学〜柳宗悦が見届けたもの〜」を見学し、月森さまに解説をいただきました。この学習の機会が得られるのも日本民藝館のお膝元にある東京民藝協会ならではです。日本民藝館学芸員、職員の皆さまに感謝いたします。今後なにかお困りごとがありましたら遠慮なくお声がけください。東京民藝協会会員を動員してお手伝いさせていただきます。
 そしてその日の午後、新年会を開催しました。新しい会員も参加され、楽しいひと時を過ごしました。先輩の参加者から「私はもう歳なのでそろそろ〜」とのお話がありましたが「いえいえ、これからもずっとご一緒にご参加ください!」とお伝えしました。会の運営には若い人たちの意見も必要ですが、諸先輩方の貴重なご経験とお知恵が必要なのです。これからも例会、見学会、懇親会等々、どうぞご遠慮なくご参加をお待ちしています。
 本年は5月24日に広島全国大会があります。また6月21日、22日には瀬戸市にて民藝夏期学校「瀬戸会場」も開催されます。この夏期学校は東京民藝協会が全面的にバックアップします。ここでも皆さまのご参加、そしてお力添えを重ねてお願いいたします。
 来年には久しぶりに東京での全国大会が予定されております。本当に忙しい一年がスタートしました。皆様のお力を総動員して、日本民藝館、日本民藝協会、東京民藝協会を大いに盛り上げてゆく一年にいたしましょう。
令和7年1月吉日。
東京民藝協会 会長 野ア 潤
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2025年01月28日

映画の紹介「ここにいる、生きている」

 この題名からどんな映画を思い浮かべるだろう。何かのドキュメンタリーかとまでは思えても、これが日本の海の昆布の話とは思えないのではないか。ポスターも監督の後ろ姿を中央に据えたもので、どうも意図がわからない。題名とポスターから、監督が主人公に見えてしまう。この題名はまずいと思うが、中身が興味深かったので紹介することとした。
 吉祥寺のアップリンクで上映していて、たまたまその最終日1月23日に行ったら上映後に監督の挨拶があった。写真はその時のものである。監督は長谷川友美と言う女性で、ほとんど単独で撮影した自主映画だそうだ。監督は逗子に引っ越したことをきっかけに、日本の海の様子が変わって沿岸漁業ができなくなりつつあるということを知った。その具体的な様子を知りたくて日本中の海を見て回ったという。

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 今日本の海は温暖化の影響で磯焼けといういわば海の砂漠化が進行している。大量発生した食べられないウニが昆布など海藻を食べつくし、ひいてはそこに住む魚もいなくなっているという。ウニは駆除しても駆除しても追いつかないほど増えている。この映画はその現状と、これに対する漁業関係者の戦いを取材したものである。
 私は磯焼けということを聞いてはいても、これほど深刻な事態になっていることは知らなかった。世をあげてうまいものを食いたいとか珍しいものを食いたいとかに夢中である。またことに近年は器にも関心が集まっている。しかし、その根本の食料生産がどうなっているかということについて、多くの人は無関心である。その無関心の裏側で地球上の耕地がどんどん失われ、種苗は世界的な大企業数社に囲い込まれ、それと関連して生物の多様性が失われてきている。この映画に即して言うと、昆布がウニに食い尽くされようとしているのだ。
 我々はこのような現状を知らなくてはならないし、このような現状を正そうとして困難な戦いをしている人がいることも知らなくてはならないのではないか。この映画でその一端を知ることができる。
 以上、簡単な紹介でした。
(藤田)

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2024年11月21日

11月例会2つ オンライン例会と民藝館見学

 11月1日(金)オンラインの例会を行った。「ブータンの社会と工芸」と題して久保淳子(くぼあつこ)さんに映像を交えたお話を伺った。久保さんはブータンが好きなあまり2年間滞在したそうで、その後旅行ガイドとして20年以上にわたってたくさんの人をブータンに案内してきた。5年位前、私はインド北東部、中国とブータン王国の国境あたりを旅行したのだが、その旅行を企画し案内して下さったのが久保さんだった。それがご縁で、今回お話をお願いして引きうけていただいた。

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 1時間ちょうどでブータン王国の概要と染織などの工芸を、映像を交えてお話いただいた。あとで受講者に聞いたら、話がとても上手で聞きやすかったし内容も面白かった、もっと聞きたいという感想が多かった。
 ブータンといっても日本ではあまり馴染みがないだろう。わたしも「ブータン山の教室」と「ゲンボとタシの夢見るブータン」という映画を見たくらい、ネパールやチベットとの区別もつかない。久保さんのお話はわたしにとっては勿論だが、会員の皆さんにとっても初耳のことが多かったのではないだろか。
 印象深かったことをひとつ、それは民族衣装のもつ意味である。ブータンでは公の場で、男がゴという、女はキラという民族衣装を着用することが義務付けられている。生徒の制服ももちろんこれである。この背景には多分ブータン王国がおかれた特殊な環境があるのだろう。ブータンの立国は地政学的になかなか難しい。そのうえ、民族と言語も多様だという。このような環境下、どうやって国民の一体感を形成するか、その対応策の一つが民族衣装の着用義務ということではないだろうか。衣装が寒暖の調整といった役割のほかに、文化的歴史的な象徴として機能していることに改めて気づかされた。-----そういえば昔、永六輔が天皇に和服を着てもらおうという主張をしていたっけ。
 国民総幸福という考え方、王室やチベット仏教の存在も、国民意識の醸成、統合に寄与しているだろう。国民総幸福と聞いて、私のような気楽な外部の人間は感心したりしているのだが、話はそう単純ではない。大概の人は物質的により豊かな生活に憧れる。近年は若年層のオーストラリアへの出稼ぎが盛んで、国内の空洞化が問題になっているとか。そのオーストラリア出稼ぎの人々が、高額なゴやキラをどんどん注文してきて、一時衰退していた手織りが復活しているそうで、いやはや世の中は複雑である。
 このオンライン例会には、45人が参加して下さってこれまでで最高の人数だった。久保さんのファンが半分くらいいたような感じであった。
 久保さん、ありがとうございました。

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 なお、久保さんの活動は「ヤクランド」というホームページで拝見することができる。さらに、旅行報告やブータンのことを広く紹介する「ヤクランド通信」というパンフレットを月刊で発行、なんと最新号は123号である。その最新号の表紙の写真を載せさせていただいた。またさらにもう一つ上げた写真は「ブータンのカード織」という冊子の表紙である。これも久保さんが制作しておられる。以上の2冊とブータンその他の旅行について関心のある方は、上記ヤクランドを見て下さい。カード織のほうは私の手元に1冊あるので、欲しい人は言って下さい。1500円です。

 11月2日(土)に、民藝館の見学会を行った。
 特別展「芹沢_介の世界」の展示で、担当の古屋学芸員に忙しい中ご案内いただいた。今回の展示も観覧者が多くて、館の迷惑にならないか心配した(迷惑にはなっているだろうが)。観覧中、話に出たのは、どうして芹沢がこんなに人気があるのだろうということであった。参加者は25人。今回は希望者が多すぎて、締め切り日以後に申し込まれた方はお断りせざるを得なかった。
 古屋さんありがとうございました。
(藤田)


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松平斉光コラム 松平斉光とシャルロット=ペリアン

 民藝にはお馴染みの、フランス人女性デザイナーにシャルロット=ペリアン(1903-1999)がいる。彼女は、昭和2年に24歳でル・コルビュジエのアトリエに入り、そこに遅れて前川國男や坂倉準三が来て同僚となり日本との縁ができる。

 他方、民藝史上では馴染みがないが、確かに柳宗理らと交流があり、ペリアンの友人でもあった人物に松平斉光男爵がいる。昭和5年にパリ大学に留学し、昭和11年に博士論文「Les fêtes saisonnières au Japon (Province de Mikawa) : étude descriptive et sociologique」(「日本の季節の祭礼(三河地方) : 記述的・社会学的研究)」)を提出しパリ大学の文学博士号を取得する傍ら、昭和13年には画家として「Au coin de la rue (街角にて)」をサロン・ドートンヌに出品した斉光は、学者でもありアーティストでもあった。

 その頃の日本政府は、昭和4年の世界恐慌以来の不経済の脱却を、貿易による外貨獲得にも求め、昭和12年商工省貿易局を外局化して拡充し、貿易品としての工芸品の輸出を促進すべく外国人デザイナーの招聘を模索していた。昭和15年初頭、この件は宗悦の理解者である貿易局施設課長水谷良一から宗理へ、宗理からすでに日本に帰国していた坂倉へと相談が行き、坂倉がペリアンを推挙し、商工省と島屋を代表して棟方志功が認めた8メートルの書簡がペリアンへ贈られた。坂倉のフランス語文を志功が描いた、筆のフランス語による賞賛の文句と墨絵に口説き落とされたペリアンは、商工省の輸出工芸指導顧問としての来日を受諾した。

 昭和15年6月15日、マルセイユから日本郵船の白山丸が出帆し、一等客室の旅客としてペリアンは日本へ2ヶ月の船旅に出た。出帆の前日には、パリにドイツ軍が入城し、翌日には、フランス首相に就いたペタン元帥がドイツに降伏を申し入れるという時であり、岡本太郎や藤田嗣治も乗っていた日本への最後の帰還船でもあった。

 船上でペリアンが写るツーショット写真の男性が斉光男爵その人である。ペリアンの斉光を始めとする日本人との交友関係の研究が俟たれるが、この二人は気が合ったようで、ペリアンは斉光との邂逅を「重要となる出会い」と自叙伝に記している。
 
 ペリアンと斉光は東京で再会し、ペリアンの職務に関しては、昭和15年11月12日の仙台の工芸指導所東北支所でのペリアン座談会の相手は斉光であり、12月19日の巣鴨の工芸指導所のペリアン訪問、同23日の座談会は斉光・宗理の同道であった。この座談会では『工芸ニュース』に「通訳は松平成光〔ママ 斉光〕氏を煩はした事を附記し、御好意を陳謝する次第である。」と書かれており、斉光が好意で通訳をしてあげたようである。
 斉光は、昭和17年1月には、ペリアンが前月のインドシナでの展示会設営にハノイへ向かってのち台湾に向かい、戦争の影響で足止めを喰らったため、速やかに日本に戻れるよう皇室に働きかけをもし、坂倉らと出迎えにも行っている。
ペリアンはその後日本が進駐した南部フランス領インドシナのダラットで終戦を迎えた後、日本の敗戦とともにフランスからの独立を目指してベトナム人たちの反乱が起きるのを横目に、昭和21年2月に母国行きの引き揚げ船に乗った。
帰国後日本の友人たちを案じるペリアンは、昭和23年5月に坂倉へ宛て手紙を認めた。宛先は坂倉であるが、文面の宛名は「親愛なる友人たち」と書いてあり、気に掛ける人物の中に、文化学院創設者西村伊作娘ヨネ・宗悦・宗理らと斉光が入っている。
 戦後ペリアンは昭和28年に再来日を果たしてから晩年まで来日を重ねた。その時にどういう民藝界の人々や、場所を訪ねたのであろうか。
 日本と民藝を愛したペリアンへの興味は尽きない。

シャルロット=ペリアン(北代美和子訳)『シャルロット・ペリアン自伝』、みすず書房、2009
シャルロット・ペリアンと日本研究会『シャルロット・ペリアンと日本』、鹿島出版会、2011
工業技術院産業工芸試験所『工芸ニュース』10(4)、丸善、1941

(世川祐多)
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2024年09月26日

手のひらの旅 ―手仕事を探して(全10回) 8 無限の点から生まれる宇宙

 今も東京で続けられている工藝をもう一つ訪ねてみよう。「江戸小紋」である。
 江戸時代はたびたび奢侈禁止令が出され、派手な色柄の着物は禁じられていた。それゆえ武士の礼装である裃は、藍、茶、黒などの色で、無地に近い小紋柄が染められていた。遠くでみると無地だが、近寄ってよく見ると細かい点柄でびっしりと埋め尽くされている。それは侍たちの隠れたオシャレだった。
 その後、町人文化が花開くと、江戸っ子たちがさらに粋な遊び心で着飾った。一見地味で渋いのに、じつは宝尽し、雪輪、松竹梅などの柄が、極小でちりばめられている。こうして発展した「江戸小紋」は、たとえ生活や文化が抑制されても、オシャレ心を忘れなかった江戸の人々の「意気地」の証しだった。

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 かつて神田川沿いには、たくさんの染物屋さんが軒を連ねていた。中野区落合で仕事をされている廣瀬雄一さんは、100年以上続く老舗の四代目。子供の頃から染め場で遊び、職人さんたちにかわいがられて、自然とこの仕事を継いだという。
 「昔の名人が作ったものを見ると、すぐにわかります。飽きがこない見事な美しさがあります。」と廣瀬さんは語る。そして自分もそんな職人技の高みを目指したいと熱く語る。
 型紙は昔ながらの伊勢型紙。1ミリにも満たない点が錐彫りされた渋紙を、長板に貼り付けた真白な絹地に乗せる。そして刃物のように薄く削った檜のヘラで、糊を刷っていく。初めはゆっくりと、次第に波にのるようにヘラが小気味よく上下する。型紙一枚分を終えると、ヘラを口にサッとくわえて型紙を両手で持ち上げ、継ぎ目に合わせて完璧につないでいく。
点が1個でも潰れたりズレたりすると、反物全体が台無しになる。まさに真剣勝負だ。刷り終えて型紙を持ち上げると、見事な連続模様が生まれていた。

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 「江戸小紋」の伝統な柄の一つに、「鮫小紋」がある。小さな点が集まり弧を描き、また次の半円が現れてつながっていく。それを鮫皮に見立てた柄だ。ずっと見ているとまるで柄自体が動いているように見える。不思議だ。
「鮫小紋には、永遠性を感じる。」と廣瀬さんはいう。小さな点が集まって、星のように円運動をくり返すこの柄は、まさに無限の宇宙そのものだ。
(服飾ブランド matohuデザイナー 堀畑裕之)

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