2022年11月26日

11月オンライン例会 「河井寛次郎の声を聞く」

11月11日(金)の夜、オンライン例会を行った。参加者は少なくて12人だった。
去年、故白崎俊次氏の写真などをご遺族から譲渡していただいたことはすでにお知らせしたが、その中に録音テープがあった。オープンリールだったのでCDに移してもらった。聞いてみたら、河井寛次郎のインタビューらしい。色めき立ったのだが、実はこれの文字起こしをしたものが『民藝手帖』に掲載されたことが分かった。さらに『炉辺歓語』という単行本になって、昭和53年(1978)に発行されている。発行所は東峰書房という出版社で、社長の三ツ木幹人氏が東京民藝協会の会員であった。(池田三四郎氏ほか民藝関係の方々の本を発行しており、河井の『六十年前の今』『いのちの窓』『仕事(拓本復刻)』もそうである。)
 そのあたりのいきさつが『炉辺歓語』の折り込みに書かれている。筆者は岡村吉右衛門氏で、インタビューの聞き手も同氏らしい。柳の死後、河井、濱田はじめいろいろな人にインタビューするつもりで、その最初が河井であった。昭和37年(1963)に録音をしたのだが、それは予定していた全3回のうちの最初の1回であった。河井が逝去して後の2回を実施できないまま宙に浮いてしまっていたという。
〈そうこうするうち、河井記念館の落成記念として、白崎俊次君が民芸手帖に録音を活字にして載せたいという申し出があり、-------編輯を先生と親交が特別であった村岡氏がやって下さるならという条件付きで録音を白崎君に渡し、それが民芸手帖の連載になった次第である。〉と岡村が書いている。つまり白崎氏旧蔵のテープは、そのテープである可能性が高い。
 ------と、長々書いたのだが、例会ではこの録音の一部を聞いていただいた。録音は全部で5、6時間あると思われるが、そのうち目下民藝館で開催中の特別展「柳宗悦と朝鮮の工芸─陶磁器の美に導かれて」にちなんだ朝鮮関係の部分1時間ほどだった。河井寛次郎がどんな方であったか、なんとなく想像される音声であった。かなり以前のことであっても、昨日のことのように新鮮な感動を飾ることなく語っておられる。
 
追加の情報のようなものを以下に紹介します。
1、『炉辺歓語』は古本で入手可能です。定価2000円より安い。
2、河井の弟子 森山窯・森山雅夫氏の談話が『民藝』839号(11月号)に載っています。これは、大阪民芸館で行われたインタビューの記録です。
3、当協会の新入会員(法人会員)で株式会社ワールド・コラボ・ジャパン・諏訪郁緒里さんという方が、会社のホームページに、河井寛次郎記念館の学芸員でお孫さんの鷺珠江さん、森山雅夫氏、多々納真氏のインタビュー記事を載せています。
■河井寛次郎記念館 学芸員 鷺 珠江氏
(前編)https://creative-collabo.com/interview/kanjiro/
(後編)https://creative-collabo.com/interview/kanjiro/2.html
■森山窯 森山 雅夫氏 https://creative-collabo.com/interview/moriyamagama/
■出西窯 多々納 真氏
(前編) https://creative-collabo.com/interview/shussaigama/
(藤田)

                                        
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2022年10月16日

インド映画「響け 情熱のムリダンガム」……音楽とカースト制

 ムリダンガムは南インド地方で行われている民族音楽、カルナータカ音楽で使われる太鼓である。日本では、多分欧米でも北インド地方のヒンドゥスターニー音楽の方が馴染みがあり、太鼓もタブラの方が知られているだろう。タブラは片面の太鼓であるが、ムリダンガムは両面太鼓で、木を刳り貫いた胴に牛の皮が張ってある。演奏者はこれを前に横たえ、片方を膝にのせて両手で叩いて超複雑な、到底ついていけないようなリズムを刻んでいく。たまには胴をたたくし、なんといったらいいか理解不能なサワリのような微妙な音もだす。
 この映画はこのムリダンガムにとりつかれた青年の物語である。青年はたまたま巨匠の演奏を聞いて感動し、その巨匠に弟子入りを懇願するが取り付く島もない。なぜなら、カルナータカ音楽は神聖な音楽で、演奏者も神聖な階層の人間でなくてはならない、わかりきったことではないかと。実は青年の父親はムリダンガム作りの職人であって、獣の皮を扱うけがれたカーストに属しているのであった。インドのカースト制は複雑で詳細は不明だが、簡単に言うとそういうことらしい。演奏家が尊敬されているのに、その楽器を作る職人が賤視されるというのは解せない話だが。(同じようなことが日本にもあった、いや現にあるかもしれない。)しかし青年はそれを熱意と運で乗り越えて巨匠の弟子となり、さらに才能と努力で一流演奏家になっていった、とまあこんな筋書きである。
 そしていやはやインド音楽はすごい。青年は一時巨匠から破門されるのだが、そのときインド中を旅して、各地の打楽器を見たり習ったりする。その音楽と楽器、踊りなどの豊かさ、多彩さには驚くばかり。青年はそれらの音楽を経験して自分の演奏をより高めていく。超守旧派の師も最後にはそれを認めて「お前こそおれの音楽の継承者だ」と言う。めでたしめでたし。
 歌と踊りのインド映画ではあるが、普遍的に存在する工芸と差別の問題、古典と革新の問題にも斬り込んだ珍しい映画であった。渋谷のイメージフォーラムの単館上映らしい。
(藤田)


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2022年10月06日

宮入さんの型染

 言わずと知れた日本のアパレル業界売上・店舗数共にナンバーワンといえばユニクロですが、そのユニクロのマガジン「LifeWear」の表紙に、なんと型染めがっ!

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 しかも、なんとその作者が私のお友達で、東京民藝協会の仲間でもある宮入圭太さんなのです。
 6年前にInstagramで圭太さんの作品を発見し、彼の素直な感性にグッと来るものを感じて連絡を取ると、備後屋に良く来ているとのこと。すごく喜んで備後屋に飛んできてくれました。
 私のオンラインショップJAPANCRAFT55のロゴや名刺を型染めで作っていただいたのが始まりで、以来ちょこちょことお願いしたり、民藝のお話しをしたりしています。


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 Instagramで作品を初めて見た時は、宝石の原石を発見したような気持ちでした。とても実直で謙虚な人柄が滲み出た素直な作品に、キラリと光る才能を感じました。
 独学で型染めを学び、柚木さんに憧れて、試行錯誤を重ねて、悩んで悩んで。
でもまだ多分発展途中だと思います。これからどんどん解放されて、伸びやかな作品ができるんじゃないかな。ユニクロさんに見つけてもらって良かったね。
 このマガジンは日本だけでなく世界中のユニクロの店舗にも置かれるんですね。世界に羽ばたいて行く日も近い!
 私のオンラインショップJAPANCRAFT55(ジャパンクラフトゴーゴー)も再始動したところです。郷土玩具を中心とした民藝の専門店。
 海外にもお届けできるように只今奮闘中。
 ぜひ訪れてみてください。
https://www.japancraft55.online

備後屋ずぼんぼ
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2022年10月02日

2008年 パリでの柚木沙弥郎展(志賀直邦)

投稿がないので、いくらか古くなるが、前会長 志賀直邦氏がお書きになった標記の文章を紹介する。これは以前の『東京民藝たより』第66号(2009年1月発行)に載ったもので、日仏交流150年記念の行事としてパリで行われた民藝に関する2つの展示を紹介したものであった。掲出するのはその一部、柚木展の報告である。もう一つの展示は、「日本における民藝のエスプリ展」(ケ・ブランリ美術館)であった。(藤田)
          ***

 もうひとつ特筆したい企画展は、ヨーロッパ・ギャラリーで10月3日から開催されている「柚木沙弥郎・浮遊する領土」展である。場所はパリ中心部、サンジェルマン・デプレ教会の近くの画廊の多い地区にある。
 柚木氏は染色工芸家として知られるが、近年自由な境地を得て、型染だけでなく、リトグラフ、モノタイプ、リノ・カット、謄写版、カーボランダムなど多岐にわたる「版による表現」に取り組んできた。益田裕作によれば、これほど多くの版形式を自在につかいこなし、独自の作品を作り出した作家は、日本では柚木以外にはいないという。ただ、これらの多種な表現は、いかに意欲的な作家といえども、孤独なひとりだけの作業で作り出すことは不可能だ。アトリエMMGとの出会いがなければ生まれてこなかった、と益田は言う。
 本展では型による染布が主たる展示であるが、それらをテキスタイル・デザインとしてみるのではなく、コンテンポラリーな造形表現としてみようとする。
 私は柚木氏の原点に、芸術家であった祖父や父から受けた資質の外に、同時代的なもの、とくにエコール・ド・パリやロシア・アバンギャルドを想像するのだが、それはそれまでの様式美に対して、より民衆的で平易な表現を感じさせるからである。
 柳宗悦の「工藝の道」に教えを受け、染色の芹沢_介に師事し、時代の子として明快で自由な表現を旨とした柚木氏の仕事は、これからも私たちを楽しませ、生きることの意味を問いかけ続けることだろう。(後略)

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2022年05月26日

ある社会運動家の半生――『平和と手仕事』と吉川徹氏

 『民藝』誌5月号に「信州佐久・望月のお味噌仕入れとおなっとう」という記事が載っている。長野県佐久市望月町で味噌づくりを共同作業でやっているという内容で、筆者は吉川徹氏、「多津衛民芸館」の館長である。多津衛民芸館というのは、長野県佐久市にある民芸館で、5、6年前には民藝夏期学校を主催していただいているし、ご存知の方も多いだろう。この記事で思い出したが、多津衛民芸館では年に一度『平和と手仕事』という機関誌を発行していて、去年の秋に26号がでた。そのなかに「私の半生と反省 社会教育という仕事に生きて」という回顧録があり、これが吉川氏によるものである。拝読してぜひ紹介したいと思ったが書けなかった。内容が立派すぎて、どう紹介したらいいかわからなかったので。だがブログの記事がなくて、『たより』が白紙になってしまうので、駄文を書くこととした。

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 吉川さんは1937年、昭和12年東京生まれ、戦中戦後の貧しく厳しい生活を経験した。1962年(昭和37)に宮原誠一(当時高名な教育学者)の推薦で、長野県の望月町(佐久市に合併される以前は町だった)に最初の社会教育主事として就職、のち場外馬券売り場設置反対運動をきっかけとして1999年(平成11)に望月町町長になった。町民が切実な問題に直面していたという事情があったのだろうが、にしても60歳あまりのよそ者の役場職員が町長になったのだから、希なこと、驚くべきことである。吉川さんは30年余の役場勤めの間にそれほどの人間関係を築き、町民から信頼される存在になっていた。任期4年を勤めた後、次の選挙には敗れた。在地の旧勢力は強いうえに、旧勢力に反対する側にも時に党派的な思惑があり、それが選挙を侵犯してくる。
 吉川さんは町長の時はもちろん、それ以前もそれ以後も、いつも住民とともにその時々の生活の問題を話し合って解決しようとした。上記の場外馬券売り場設置、佐久市との合併、佐久病院改築等々、上からの押し付けに対して異を称えるとき、教条的な方針を持ち込む運動家ではなかった。〈外からの開発に反対して「地域を守る」というだけでは、「ではどうやって生きていくか」という問いには答えられない。抵抗の中で、自分たち自身が地域を作っていく、行きていかれる地域を作っていく、これが必要ではないか。(中略)「抵抗」から「抵抗の中の創造へ」という言葉が私たちのテーマになった。〉と書いておられる。さらにまた、〈お上を糾弾することがあっても、民衆を糾弾してよいのか。このことを主張して、わたしは解放同盟から激しく批判された。〉とも書いておられる。公正な思考とそれを主張する勇気の持ち主、それが吉川さんであった。

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 町長選に敗れてから随分経つが、吉川さんは相変わらず忙しい生活を送っておられるようだ。「私の半生と反省」を読むと、沢山の団体に参加し、歌を歌ったり、三味線を弾いたり、古文書を読んだり、「未来工房もちずき」の理事長や佐久病院の外部委員や「佐久全国臨書展」の実行委員長を務めたり、そして「多津衛民芸館」の2代目館長である。
 吉川さんにとって、多津衛民芸館に関わる活動はそれまでの社会運動の延長線上にあっただろう。多津衛民芸館の初代館長、小林多津衛は戦前にいわゆる白樺派教師の1人で、若いころから民藝品の蒐集も行っていた。それら蒐集品を所蔵展示するために、1995年(平成7)寄付によって建設されたのがこの民芸館である。小林には戦時中の教員生活において国策に抵抗できなかったという苦い反省があり、戦後は平和を説いてやまなかった。この平和を希求する思想を民藝の思想に組み込んだ(その逆かもしれないが)ところに小林の考え方の特色がある、ような気がする。-----浅学なので断言はできないけれど。だから、機関誌の名前は『平和と手仕事』なのである。
 前後するが、そもそも望月町が社会教育主事を置くことになったのは、青年団等の強い要望によるもので、それ以前に小林多津衛の公民館館長就任という伏線があった。小林公民館長の誕生で青年団や婦人会等の活動はますます盛んになり、やがて社会教育主事設置請願の話になったという。小林公民館長といい吉川社会教育主事といい、実際に活動している人たちの推薦に行政側が応ずるという時代があったのだ。
 小林や吉川さん、そして多津衛民芸館の民藝へのかかわり方は独特である。やはり『民藝』誌5月号の編輯後記に編集長の高木氏が書いている。〈民藝運動は誰かに価値を決めてもらったものを集めて回ることではなくて、自身の目の前に現れたものとしっかり向き合い、感じていくことの積み重ねで成立してきたものだ〉と。「誰かに価値を決めてもらったものを集めて回ること」しかしてこなかったわたしに何かを言う資格はないが、吉川さんのような方がおられることを紹介したいのであった。
 『平和と手仕事』を読みたい方は多津衛民芸館に問い合わせて下さい。
(藤田)
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2022年01月27日

寒の入りの頃には 〜木喰明満 地蔵菩薩像の絵葉書〜

 一年が終わり、一年が始まった。一年で最も寒い「寒」(かん)もまた、年の始まりを追いかけるように始まる。「小寒」「大寒」である。これを過ぎるとやがて「立春」を迎え、春がどんどん近くなってくる。1月5・6日の小寒から始まる時期を「寒の入り」と言うが、この時分は寒中見舞いを出すのが恒例である。喪中の挨拶をいただいた場合の返礼を認めるのも、この時期。
 今年は仕事でお付き合いのある方に喪中の返礼として寒中見舞を出した。送付先は奥様に。亡くなられたのは旦那様である。癌であった。享年63歳。このときつぶさに知ったことは一番身近な方が亡くなられたとき、一番悲しみたい人はろくすっぽ悲しみに浸ることはできないということ。葬儀の手配・行政の手続き・金融機関の手続き・仕事上の差配等々やることが多すぎるのだ。物事が一段落し、直接奥様にお会いする機会があった。思えばお伺いする度に料理好きの旦那様から手作りの一品を振舞っていただいた。毎年夏になると、新鮮な紫蘇を道の駅で買い込み、よく紫蘇ジュースにしていた。夏の暑い日に訪問すると必ずと言って良いほどこの紫蘇ジュースを出してくれた。紫蘇の紫色が目に鮮やかで、ほどよい酸っぱさが暑さをくぐり抜けて一息つくには良い暑気払いになった。生前の旦那様の思い出が会話会話に花咲くと奥様はふと涙ぐみ、言葉を詰まらせた。「(癌で)覚悟はしていたけれど、こんなに早く亡くなるなんて…」あまり休めていないのだろう。目には隈ができ、以前よりもやつれていた。そんなとき、どんな言葉で励ませるだろうか。どんな行為が励みになるのだろうか。
 返礼として出す寒中見舞いの葉書は木喰明満の地蔵菩薩像の絵葉書(日本民藝館で取り扱いあり)にした。地蔵菩薩の全てを包み込むような優しい微笑がある。悲しみに暮れた人が明日を生きるための糧になれますように。遠い立場にいるからこそ、できる心遣いは、したい。寒の入りの前日にそっとポストに投函した。
 今まではご夫婦で寮の食事・管理運営をしていたが、今は奥様一人で周囲の力を借りながら立派に切り盛りしている。亡くした悲しみはまだ癒えないけれども、まっすぐ前を向いている。困難に直面しても「旦那様が守ってくれているから」乗り越えられると仰って下さる。片方が亡くなっても残る「愛」の形に目を見張った。まるで、目に見えない存在に優しく包まれているような。安心感にくるまれた「愛」の形。
 寒の入りの頃には、一年が終わり、一年が始まる時期と重なる頃。悲しみに明け暮れてしまった方への寒中見舞いは木喰明満の地蔵菩薩像の絵葉書を出すのがこれからの習慣になりそうだ。優しい微笑が受け取った人の心にゆっくり響くよう願って。人間、生きねばならぬ。
鈴木 華子 記ス

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2021年10月21日

民藝関連本のご案内

東京・竹橋の東京国立近代美術館では、2021年10月26日より「柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年」(https://mingei100.jp)が行われます。国立の美術館で開催される大規模な展覧会とあって、民藝関係者の間では開催前から大きな話題となっています。
さて、この展覧会にあわせてといってもいいかと思いますが、民藝関係の書籍がたくさん発行されておりますのでご紹介します。

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〈1冊目〉『民藝』2021年10月号(826)「各地民藝館・工藝館案内」特集(日本民藝協会)
まずは当協会の『民藝』2021年10月号「各地民藝館・工藝館案内」特集です。日本各地に点在する民藝館や民藝関連の記念館、美術館などを29施設、ご紹介しています。今回この号で紹介している各施設も民藝の100年を振り返るさまざまな時代の流れのなかで生まれてきた施設です。
https://www.nihon-mingeikyoukai.jp/info/mag2110/

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〈2冊目〉『もっと知りたい 柳宗悦と民藝運動』(東京美術)
日本民藝館の杉山享司学芸部長監修の同書は、「もっと知りたいシリーズ」として、さまざまな工芸美術の作家らを紹介する書籍です。以前には棟方志功も取り上げられています。
柳宗悦の生涯をたどる第一部と民藝同人を紹介する第二部の構成で、柳宗悦と民藝運動の流れがわかりやすく紹介されています。
https://www.tokyo-bijutsu.co.jp/np/isbn/9784808712204/

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〈3冊目〉『別冊太陽 柳宗悦 民藝 美しさを求めて』(平凡社)
次にご紹介するのは『別冊太陽 柳宗悦 民藝 美しさを求めて』です。
2006年に発行された『別冊太陽 柳宗悦の世界』から改定された新装版です。日本民藝館所蔵品の紹介を中心に、民藝の美の世界を紹介しています。2006年当時発行された際には当時の日本民藝館職員を中心に執筆されましたが、今回は現在の同館職員が主要な執筆陣です。2冊を見比べていただいて、その違いを楽しんでいただくのもよろしいかと思います。日本民藝館監修。
https://www.heibonsha.co.jp/book/b590093.html

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〈4冊目〉『愛蔵版 用の美 日本編』『愛蔵版 用の美 李朝ほか海外編』(世界文化社)
こちらも2008年に刊行された『用の美』上巻・下巻から改定された新装版です。土門拳の弟子だった藤森武氏の撮影による日本民藝館の優品と、日本民藝館の職員が中心となった執筆・解説による構成です。日本編と李朝ほか海外編の2冊で紹介しています。
https://www.sekaibunka.com/book/exec/cs/21218.html
https://www.sekaibunka.com/book/exec/cs/21219.html

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〈5冊目〉『芸術新潮』2021年10月号「これからを生き抜くための民藝」特集(新潮社)
巻頭のグラフに料理研究家の土井善晴氏による、お料理を日本民藝館所蔵の器類などに盛り付けた「家庭料理は民藝だ 手仕事という土台」。そのほか「『民藝』って何だろう」、リニューアルした日本民藝館の紹介、民藝とデザイン、山陰の民藝やブックガイドなど、民藝について大きく取り上げていただいている意欲的な特集構成です。

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〈6冊目〉『別冊太陽 芹沢_介の日本』(平凡社)
『別冊太陽 柳宗悦 民藝 美しさを求めて」と同様に、2011年に刊行された『別冊太陽 染色の挑戦 芹沢_介 世界は模様に満ちている』をリニューアルして、新たな執筆や構成で刊行されています。静岡市立芹沢_介美術館の監修です。
https://www.heibonsha.co.jp/book/b588141.html

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〈7冊目〉山本教行著『リーチ好き』(今井出版)
鳥取県の岩井窯の山本教行氏は、18歳の秋にバーナード・リーチに出会い、その出会いを機にその後50年以上陶工として歩み続けています。岩井窯が所蔵するバーナード・リーチ作品25点を紹介しながらこれまでのさまざまな想いを綴っています。東京民藝協会会員の澁川祐子さんが編集・構成を担当しています。
(↓10月23日にインスタグラムライブが行われるそうです)
https://shimatori.shop-pro.jp/?pid=163939968

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このほか、日本民藝館では「柳宗悦の世界 棟方志功と東北の民藝」を開催中です。10月30日には石井頼子氏(棟方志功研究家)と杉山享司氏(日本民藝館学芸部長)によるリモート講演会も予定されていますので、こちらもぜひご視聴いただければと思います。
https://mingeikan.or.jp/2021/10/14/8519/?lang=ja

(日本民藝協会・村上)
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2021年09月21日

映画『食の安全を守る人々』と本『売り渡される食の安全』

 標記の映画は今年の夏に封切り、本は2019年夏に発行された。ともに元農水大臣の山田正彦氏が制作し書いた映画と本である。豊かそうに見える日本の食料や農業が大変なことになっているらしい。
 映画の宣伝文はこうである。

 〈種子法廃止、種苗法の改定、ラウンドアップ規制緩和、そして表記無しのゲノム編集食品流通への動きと、TPPに端を発する急速なグローバル化 により日本の農と食にこれまで以上の危機が押し寄せている。しかし、マスコミはこの現状を正面から報道することはほとんどなく、日本に暮らすわたしたちの危機感は薄いのが現状である。/この趨勢が続けば多国籍アグリビジネスによる支配の強まり、食料自給率の低下や命・健康に影響を与えることが懸念される〉

 ここで、多国籍アグリビジネスとある代表的存在がモンサント社(旧社名、現在はバイエル社の一部)であり、そのビジネスの実態が「モンサントの不自然な食べ物」という映画で明かされた。こちらは2008年に公開されており、有名な映画なのでご存知の方もいるだろう。ついでにその映画の宣伝文の一部を引用しよう。
〈自然界の遺伝的多様性や食の安全、環境への影響、農業に携わる人々の暮らしを意に介さないモンサント社のビジネス。本作は、生物の根幹である「タネ」を支配し利益ばかりを追求する現在の「食」の経済構造に強い疑問を投げかける。「世界の食料支配、それはどんな爆弾より脅威である・・・」と作中で語られる、世界の食物市場を独占しようとするモンサントの本当の狙いとは?〉


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 旧モンサント社(バイエル社)が販売してきた除草剤「ラウンドアップ」(商品名)と遺伝子組み換え作物の関係を簡単に説明すると、ラウンドアップに耐性のある作物を遺伝子組み換え操作で作る。農家はその種を蒔き、ラウンドアップを散布する、当然他の植物は枯れてしまう。ラウンドアップが散布された土地には遺伝子組み換え作物以外は育たない。また組み換えの種は勝手に飛んで行って周辺の作物と交雑を繰り返し、いつしか原種を駆逐してしまう。この最高の組み合わせによって農家は永遠にその種と除草剤を買わなくてはならなくなる。自家採種は不可能となる。うまいことを考えたものだ。しかも、ラウンドアップには発がん性の疑いがあるというし、さらに遺伝子組み換え食品を摂取することによる後の世代への影響も心配されている。

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 ということで、この本によれば欧米ではラウンドアップに対して被害者から1万3000件の訴訟が起こされ、損害賠償額が日本円で1兆円を超えるのでは、といわれているそうだ。その訴訟が表すように、欧米では使用禁止が定着しつつあるという。ところが、日本政府は問題ないから使用を許可するという立場で、農地にも森林、公園や家庭の庭にも遠慮なく使われる、という恐怖の事態が進行中。さらに近い将来、「遺伝子組み換えでない」という表示(豆腐なんかによく書かれている)が事実上できなくなるような制度も発効するらしい。著者山田は、アメリカの全米小麦連合会会長に「アメリカでは遺伝子組み換え小麦を作っているが(ラウンドアップや類似の除草剤とのセットで)、国内では抵抗が強くて売れない、まず日本で食べてくれ」と言われた、と書いている。
 日本政府は多分農業市場をアメリカに全面的に開放していこうという方針であり、上記の諸政策はそのための布石なのだろう。10年後我々は何を食べさせられているだろう。民藝の結構な器に農薬の残留した遺伝子組み換え食品ということではありがたくないはなしである。
(藤田)

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2021年08月10日

楊三郎と東京民藝協会

7月上旬、東京で開催された「台湾の至宝 楊三郎展」を見に行った。
楊三郎(1907-1995)は、日本統治時代の台北生まれの台湾人画家である。十代で絵を志し、内地とフランスに留学して西洋画の技術を磨いたのち、仲間と共に美術団体「台陽美術協会」を設立した台湾美術界の功労者で、晩年に至るまで精力的に作品を描き続けた。


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銀座の泰明画廊で開催された楊三郎展。ヨーロッパの風景画を中心に、戦後の作品が多く出展されていた。

昭和40年代前半に『民芸手帖』を読まれていた方は、楊三郎氏のお名前に憶えがあるかもしれない。実は楊画伯は、協会ともご縁のある人物なのだ。

東京民藝協会では、発足当初より見学旅行がたびたび開催されていた。協会の白崎俊次氏による事前調査を経て構成された見学内容の豊かさ(と濃密なスケジュール)には定評があり、1960年代後半から80年代初めにかけては、台湾旅行も何度か催行されている。

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初回の台湾旅行を特集した『民芸手帖』(1968年2月号)

初回の台湾旅行は1967年11月で、50名ほどが参加した。キャンセル待ちが出るほどの人気だったという。戦前に柳宗悦が巡った調査地を組み込んだ見学コースは、白崎氏が関係者の協力を得て練り上げたもので、柳訪台時の痕跡が今より色濃く残っていた54年前、参加者を存分に楽しませたに違いない。

しかしながら、柳が1か月かけて見たものを1週間に凝縮した見学計画は過密そのもので、「そこにうまいものが湯気を立てていても、ゆっくりパクつけない」こととなる。そして一日の終わりには参加者を疲労が襲う。


バスの窓からみた屋台や、食べもの屋の店先でつくっているホカホカの揚げものや、麺類が食べたくて、そこに台湾本来の庶民の味があるはずだ、などとうずうずするのだが、ホテルについてタクシーを飛ばそうにも、なんせくたびれて、体がもうトットコとはいうことをきかなくなっている。無念という外はなかった。(佐々木芳人「食在台湾」(一)『民芸手帖』1969年5月)

これを書いた佐々木芳人氏は、食への未練が断ちがたく、帰国を一日延ばした参加者である。そこで救世主となったのが、知人に紹介された楊三郎画伯であった。佐々木氏は、「大変なグールマン」の楊氏にいざなわれて美食の数々を堪能し、旅の最後にようやく満足(腹?)を得たのだった。

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その日に楊氏が案内した店のひとつが、現在も営業する雲南料理の人和園。
「鶏油碗豆(スナップえんどうのスープ)」は「過橋麺」(←写真見当たらず・・)と並ぶ看板料理のひとつ。


戦後国民党と共に渡台した外省人によって中国各地の食文化が持ち込まれ、台北の街には北京、広東、四川、上海、浙江、山西、湖南、雲南等々さまざまなレストランが林立していた。その多様性に驚いた佐々木氏は、帰国後あらためて美食探訪のための個人旅行を計画し、1969年1月、台湾へ再び赴いた。台北以外の土地も含めた12日間の食べ歩きスケジュールを組んで案内してくれたのは、「万事、まかせてもらいたい」と笑う楊画伯である。

旅の成果は、のちに佐々木氏が『民芸手帖』に「台湾・食べある考 食在台湾」(1969年5月〜70年5月、以下「食在台湾」)を連載し、材料やレシピ、写真、手書きの地図も交えて余すところなくレポートしている。先日逝去された漫画家のサトウサンペイ氏も3日遅れで合流し、旅を賑やかなものにした。

佐々木氏は後になって、楊氏が組み立てたスケジュールには「戦後渡台の中国料理」と「戦前からの土着料理」がうまく按排され、短期間で台湾の食を包括的に経験させるための並々ならぬ配慮があることに気づく。そんな楊氏が案内するのは高級店のみならず、路地裏の小さな店や道端の屋台、果物屋、市場の奥までとにかく幅広い。台湾の美味しいものは、街の至るところに存在しているのである。


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楊画伯推薦の肉粽の店・再發號(台南)。今や「百年老店」となっている。拳二つ分ほどある具だくさんの粽は、「戦前からの土着料理」に属する台南伝統の味。

台湾じゅうの美食の所在を熟知しているだけでも見事だが、メニューを睨んで注文する品を厳選し、来歴や材料や製法を解説し、次にもまだ行く店があるからと、箸の止まらぬ面々にやんわりストップをかけ・・・と、楊氏のアテンドぶりは実に素晴らしい。毎朝宿まで迎えに現れ、数日の下準備を要する超高級食材のスープを自宅でふるまい、佐々木氏の所望する季節外れの食材の調達に奔走する楊氏を、読んでいて好きにならない人がいるだろうか。

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「食在台湾」第1回目に掲載された楊氏ご夫妻(『民芸手帖』1969年5月号)。楊画伯の写真はどれも穏やかな笑顔が印象的。

しかし歴史を遡ると、そんな「グールマン画伯」の笑顔の奥も垣間見える。
戦後、日本による統治の終焉に続いて国民党軍が渡来し、台湾の政治体制は激変した。日本式の教養を土台にキャリアを築いてきた楊氏は、40歳を前にして環境の劇的な転換に直面したのである。

今回の楊三郎展を報じた新聞記事(『毎日新聞』2021年7月1日夕刊)には、二・二八事件(1947年)の知識人弾圧で、楊氏も銃殺のため連行されたが、途中で逃亡して命拾いしたこと、その後「失望」という作品で政権への不満を示したことが記されていた。

佐々木氏との旅は、それから約20年後、楊氏が60代に入った頃のことである。変貌する社会のなかで、失意と反発を内包しつつも粛々と暮らしを営むしかなかった楊氏が、台湾に根を下ろしてゆく「戦後渡台の中国料理」をもつぶさに味わい尽くし、「グールマン」たる自らの味覚を以て品定めしているところは何とも逞しい。


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楊氏の自宅(現・楊三郎美術館)のすぐ傍で1955年から営業している世界豆漿大王。中国北方式の朝食メニューの専門店。小麦粉をざっくり揚げた油條(上)は、渡仏経験豊かな楊氏曰く「台湾のクロワッサン」。下は油條を入れた鹹豆漿(豆乳スープ)。戦後に流入した食文化も、今や台湾の朝食の定番として定着した。

佐々木氏の「食在台湾」への反響は大きく、連載第3回目のページの片隅には、協会からのこんな告知が出ている。
第二次台湾民芸旅行
台湾の民芸とデザイン(※)・食在台湾の二本の台湾記事で、台湾熱が発生し大阪から電話で台湾民芸旅行を計画したらと、また東京勢からもう一度との声が上がっている。参加希望の方はお申し出ください。計画致します。(※伊藤清忠「台湾の民芸とデザイン」のこと。 1969年6、7月号掲載)

軽妙かつ詳細に綴られる佐々木氏の「食在台湾」は好評で、連載は第13回まで続き、協会の二回目以降の台湾旅行もその後実際に催行された。こうした「台湾熱」発生の一因が「食在台湾」だというならば、その旅を全面的に支えた楊三郎画伯は、紛れもなくその火付け役の一人なのである。

「食在台湾」は、今となっては半世紀前の台湾社会を記録した貴重な現代史資料である。ただそれ以上に、本来の美食案内としての役割も失われていない。現在まで続いている店も意外に多く、連載時には生まれていなかった私も、台湾へ行くたび「食在台湾」のお店を探して当時の追体験を楽しんでいる。再び台湾へ渡航できる日が早く来てほしいものだ。
(天野)

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2021年08月01日

本の紹介   『世界のインディゴ染め』 カトリーヌ・ルグラン著 『雪国の民俗』 三木茂著

『世界のインディゴ染め』の表紙下の帯に書かれた宣伝文句は以下である。
 〈パステルやインディゴの歴史と、世界各国でインディゴ染めを行う少数民族、職人、工房を、美しい写真と図版掲載で紹介。ヨーロッパ、日本、中国、ラオス、ベトナム、インド、アフリカ、中央アメリカなど、世界中の含藍植物を使った染め織りの文化に触れられる、貴重な一冊です。〉

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 この通りの本で、4500円+税という高い本なのだが、一見の価値があるかと思う。藍と藍色の実に多彩な美しさに驚き感心する。著者はグラフィックデザイナーだそうだが、対象がほぼ世界中に及んでいるので、どうやって取材したか知りたいところである。 
 (発売元:バイ インターナショナル  2019年発行 4500円+税)
 
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 これを見ているうちに、別の一冊を思い出した。『雪国の民俗』という本で、ずいぶん昔、昭和18年に発行されたものである。三木茂という映画カメラマンが昭和15年ころの秋田県男鹿地方の民俗を撮影した写真集で、柳田国男の短い解説がついている。(写真のものは、昭和52年に再版されたもので、ご覧の通り殺風景な表紙である)

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 この中で、人々はみな藍の着物を着ている。昔は野良が大多数のひとの仕事場で、-----写真を見ていただきたいのだが、今時分は一面の青田にたくさんの人が散らばって草取りに忙しいころであった。その人たちがみな藍の着物を着ている。藍の着物と言っても、近くによって行くと、とくに娘たちはさまざまに工夫を凝らした着付けで、実に多彩である。この景色を想像すると、日本の藍もなんと美しいことかと思う。もう1枚の写真の3姉妹の服装と表情のなんという素敵さ、とくに左端の長女の美人度は、かの木村伊兵衛の『秋田』の表紙の美女と双璧である。----と余計なことを書いてしまったが、この本も一見の価値があるかと思うので、おこがましくも紹介した。

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 復刻版が2012年に出ているらしいが、28,600円という高値、再版のものなら、日本の古本屋やヤフオクで5000円以下で売っている。
(藤田)

posted by 東京民藝協会 at 19:34| Comment(4) | その他