2019年09月15日

多津衛民芸館『平和と手仕事』24号

 民藝ブームのようである。しかしこれは実に危ういものだ。民藝を云々していられる結構な時間がいつまで続くものか、「薄氷のうえのブーム」だと思えてならない。
 例えば、あと一回原発が事故を起こしたらどうなるか。『原発ホワイトアウトアウト』(若杉冽著、2013年、講談社)という本がある。某国の工作員が、山の上にある送電線の鉄塔を破壊する。新潟某所の原発の電源喪失、大雪に阻まれて対応策が機能しない------と、よくできた設定で、しかもあっておかしくない話である。最近某国が盛んにナントカ飛翔体を飛ばしているが、それが飛んできても同じようなことだろう。今の日本は、《福島の悲劇に懲りなかった日本人は、今回の新崎原発事故(架空の場所----藤田注)でも、それが自分の日常生活に降りかからない限りは、また忘れる。喉元過ぎれば熱さを忘れる、日本人の宿痾であった。》という著者のいう通りになっている。
 心配事はそればかりではない。農業、林業分野においても、地域の過疎化、従事者の高齢化と後継者難、人手不足、そして(外国では禁止されている)除草剤の使用や遺伝子組み換え作物の自生化など、命と国土の存続そのものさえ危うくする事態が進行中である。------と、大きく出てしまったが、まじめに考えると夜も眠れない。私の場合は、俺だけは大丈夫だろうと都合のいいことを思って気楽に暮らしているのだが。

 小林多津衛民芸館という施設が長野県の佐久市にあって、ここが年1度『平和と手仕事』という雑誌を発行している。24号がこの9月に発行されて拝見した。今号は「過疎地に生きる若い世代」という特集で、佐久上田あたりに住む農業従事者ほかいろいろな若者の暮らしぶりを伝えている。
 こういう若者がどれくらいいて、実際の市なり町なりの全体にどの程度の影響を及ぼしているかは分からない。また、佐久は東京に近くて移り住むには比較的便利なところだろうから、こういうことが全国的に起こっているとは考えにくいだろう。何百年も続いてきた都市への集中という勢いを転倒させることは本当に難しい。国全体の大きな構想が必要なのだが、政府は外国人労働者の受け入れという禍根を残しかねない場当たりの対策しか考えていない。国全体がナントカナルダロウと今の繁栄に安住しているのだ。冒頭の本の著者が言う通りである。であれば、他力本願で無責任なのだが、こういう若者の出現に期待するしかないのかもしれない。ともかく、田舎、過疎地にもいろいろな生活の場がありそうなことを教えてくれる特集であった。

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 この雑誌はおよそ180ページあって、大変な時間と手間がかかっている。これを24号も、つまりは24年も発行し続けていることは大変なことである。「平和と手仕事」という書名からは民芸館とこの雑誌の願いが伺える。民芸館は、3年ばかり前に夏期学校が開かれていてご存知の方も多いと思うが、望月という旧中山道の宿場町の郊外にある。山の上の気持ちのいい場所に建っている。

多津衛民芸館 〒384-2202 長野県佐久市望月2030-4 電話1(プッシュホン)0267-53-0234
(藤田)

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2019年08月18日

新会員歓迎会&懇親会

8月10日の日本民藝館特別展の見学会のあと、東京民藝協会の新会員を対象にした歓迎会&懇親会を行いました。
昨年と今年にかけて12人ほどの方に入会いただきましたが、例会などの定例行事にご都合がつかない方もいらっしゃるため、今回改めて、たくみの野崎さんらとお声をかけ、交流の場を設けました。
当日は、会場となったべにや民芸店に、新会員と同世代の会員の合計16人(画像の撮影者は藤田さん)が集まりました。
一人一人時間をかけて自己紹介し、新会員の方には東京民藝協会に入られた経緯などをお話しいただきました。楽しい時間はあっという間に過ぎ、話し足りないうちにお開きになりました。
東京民藝協会では毎月の例会(勉強会)をはじめ、旅行会や新年会などを開催しておりますが、同時に会員同士が繋がり、今回のように楽しく交流できることも、入会されたメリットの一つだと思います。新会員は随時募集しておりますので、ご関心のある方はぜひお問い合わせください。
次回の懇親会は秋頃に予定しています。今回ご都合がつかなかった新会員の方も次の機会にお待ちしております。
(奥村)

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2019年03月08日

骨の洗い方-----映画「洗骨」

 変な表題をつけてみたが、単に映画の紹介、その内容全体の紹介でなくて、題材になっている「洗骨」という風習に限っての紹介です。

 民藝の世界ではよく知られる厨子甕ジーシーガミ、あれは本来は洗骨後の骨を納めるものだそうだ。たしかに、火葬後の骨はあれほどのかさはないような気がする。
 洗骨という風習は沖縄や奄美の南島にあって、かの地では土葬、火葬が行われない。風葬をして数年後にそれを洗い、厨子甕に納める。そして門中の大きな墓に先祖と共にまつる。墓の中にはたくさんの甕が並んでいるそうだ。こんな程度のことを聞いていたが、その実際を映像で見ることができる映画である。

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http://senkotsu-movie.com/

 墓、この映画では海に向かう崖に掘られた穴だが、入り口は石積、その石を外すと中に木棺(屈葬の)が置いてある。それを運び出して骨を取り出し洗う。頭蓋骨は椿油で清める。そして厨子甕に納めるのである。
 現在は沖縄、奄美でもほとんど火葬になっていて、この風習は沖縄の先島や奄美の一部にだけ残っているという。ずっと以前に新聞で読んだのだが、洗骨を実際にやるのは女性で、その女性たちから早く廃止してくれという声が上がっているがなかなか廃止されない、というような記事だった。この記事の影響もあってか、恐ろしい風習だという印象を抱いていた。しかしこの映画では神々しい家族の行為として描いている。

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http://okamoto-taro.okinawa/

 物語の展開は作りすぎという感想を持ったが、沖縄の美しい風物を見ることができる。ただの道や草木が美しい。これを書きながらもう一本の映画を思い出した。「岡本太郎の沖縄」という映画で、これも一部だが風葬を扱ったものだった。岡本が久高島の風葬の場に立ち入って、これに悪い噂がたった。それについて真相を明らかにしようとする内容が含まれている。複雑すぎてきちんと紹介できないので、こういう映画がありますというこ
とのみ。        
(藤田)
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2019年01月25日

「人間機械」という映画

 「人間機械」-----題名を聞いただけではどういう意味かわからない。しかし映画を見たら恐ろしいまでにピッタリの題名だと変な感心をする。原題は「MACHINES」だそうだ。インドの織物工場の中を撮影したドキュメンタリー映画で、人間が機械に組み込まれて過酷な労働をさせられている。ここでは機械と人間は混然一体で、だから人間機械だ。
 不衛生な暗い工場と機械の轟音、汚れたランニングシャツとゴムゾーリやはだしの労働者、過重な労働、もしわれわれが現実に目撃したら正視し続けることができないのではないか。監督は、撮影後難聴になったというから凄まじい。しかしこの現実が映像化されると、美しいと言えば美しい映像と律動的で迫力満点の音響の映画になる。-----現実を覆い隠しているわけではないが

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 少し前には「苦い銭」、もう少し前には「女工哀歌」、いずれも中国の縫製工場に取材した映画もある。そこでは出稼ぎ労働者が、やはり働きづめに働いている。田舎に残されるのは老人と子供で、中国の大きな社会問題になっている。残された幼い三姉妹の生活を追った「三姉妹〜雲南の子」という胸打つ映画があった。

 これらの映画に映された労働が生み出したものは、最後に先行国の人間に消費される。われわれはインドの綿布は安くて良いとか、このジーンズえらく安いとか言って喜んでいるわけだ。ここには持ちつ持たれつとばかり言いえない不平等の関係がある。
 -----だからどうだという続きが肝心なのだが、お定まり以上のことは書けないので、とりあえずご紹介のみ。
(藤田)

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2019年01月14日

手元の郷土玩具(21) 金沢の福徳

 この年末年始は、東京の実家と合流して、金沢に行ってきた。
金沢には「中島めんや」という郷土玩具の老舗があって、今もさまざまな愛らしい玩具を作っているのだけど、今回はちょっと別のお話をしたい。

 金沢では年末から年始にかけて、砂金袋・福俵・打出小槌などの形をした最中の皮の中に、縁起物の形をした砂糖菓子の金華糖や小さな人形を入れた「福徳」という菓子が売られる。
 この菓子は江戸時代の文化6(1809)年、十二代加賀藩主前田斉広(なりなが)公が金沢城二の丸御殿が新造された折、その祝賀用に創案された菓子である(「諸江屋」HPより)。正月の祝い菓子として売られ、中から何が出てくるのかが楽しみで、金沢の人から愛されてきた。
 明治41年に金沢で生まれて以来、ずっと金沢で教員として暮らされた村尾泰氏の著書『金沢の玩具』(昭和45年、北国出版社刊)によれば、福徳は「フットク」と呼ばれ、村尾氏が幼い頃は、金華糖と練物の人形が中に入っていたという。

 金沢ではかつて、桐のおがくずや小麦のふすまを、生麩糊(しょうぶのり)で固めた練物玩具が作られていた。軽くて丈夫だったため、福徳に入れる人形には最適だったのであろう。ただし、昔の練物玩具の宿命で、福徳の人形も時間が経つと、中を虫が食って、形は残っていても、指でつまもうとするとぴしゃんと潰れてしまったそうである。

 戦後になって、福徳の中の人形は、練物玩具から、富山製の土人形に変わった。
  富山では、福徳人形だけで売られていて、私の手元にも、富山土人形の最後の作者・渡辺信秀さんの福徳人形がある。
いずれも1cmほどのごく小さなもので、宝珠・福良雀・だるま・宝船など、縁起の良い人形が数多く作られていた。


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渡辺信秀作 福徳人形

 現在では、落雁菓子で著名な金沢の老舗菓子店「諸江屋」だけが、年末年始に福徳を販売している。
中に入っている土人形は、渡辺信秀さんの晩年に富山市の肝いりで結成された「とやま土人形伝承会」が作る土人形が入っている。
 ※富山土人形を継承した団体にもうひとつ、「土雛窯」があり、こちらでも福徳人形は製作されているようである。

 ・諸江屋のホームページ
 http://moroeya.co.jp/archives/76
 ・富山土人形に関するホームページ
 http://kyoudogangu.xii.jp/tqyama.htm


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現在の福徳。割れた福徳の中に見えるのは、金華糖の恵比寿様

 駅ビルの「諸江屋」の売店で買い求めた福徳を、家族で分け合い、カラカラと振って中に何が入っているかを想像しつつ、皮を割って中を取り出した。
 金華糖ならそのままお菓子として食べられるし、土人形ならいいお土産になる。
こうした、誰もが楽しめるお正月の縁起菓子に、今も続く金沢の優雅な風情が感じられ、年始から心が温かくなった。
(千葉孝嗣)

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2018年11月13日

手元の郷土玩具(20) 和歌山の瓦猿・瓦牛

 広島から京都へ向かうのに、和歌山に立ち寄るというのはおかしな話かもしれないが、東海道−山陽新幹線で行き来ばかりしていると、思い切って時間を見つけなければ、和歌山まで足を延ばせない。
 和歌山へ出かけたのは、かの地の郷土玩具・瓦猿と瓦牛をいただくためである。
 JR和歌山駅から徒歩10分ほどのところに、この玩具を扱う野上泰司郎さんのお宅がある。
 「扱う」と書いたのは、野上さんのお宅では、この瓦焼きの人形を焼いているのではなく、彩色と販売管理だけを行っているからである。


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古い瓦猿たち

 野上さんのお宅のある地域は元は「瓦町」で、野上家も昔は瓦を焼いていたそうだが、街中でもあり、先代で瓦を焼くのをやめてしまわれたそうだ。ただし、江戸後期から作られているという伝統の瓦猿・瓦牛を守るため、近年まで大阪南部の泉州瓦の窯元に焼成を依頼していた。しかし、阪神大震災や台風などでの被害から、瓦屋根を使う家が急速に減り、依頼できる窯元もなくなったため、今は淡路島で鬼瓦などを専門に作る瓦屋さんに依頼して焼いてもらっているのだという。
 猿と牛の色が鈍い銀色なのは、「いぶし瓦」という製法による。インターネットで調べると、いぶし瓦とは「釉薬を使わず焼成した後に、空気を完全に遮断して「むし焼き」にする「燻(いぶし)化工程」が特徴です。焼成時に炭化水素ガスを接触させることで、瓦の表面に銀色の炭素膜を形成します。」とのこと(株式会社 田内設計のHPより引用)。
 まさに、銀色に輝く瓦屋根の色そのものである。

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瓦猿の石膏型

 型は石膏の二枚型で、瓦屋さんに依頼して型抜き・整形・焼成までを行ってもらう。牛は無彩色だが、猿は顔と手に持つ桃に、奥様の喜美子さんが「べんがら」で彩色する。3回くらい重ねて塗らないと、しっかりした色が出ないそうだ。
 石膏型は、ある程度の数の人形を抜くと劣化するので、何度も作り変えてきた。多少の大きさの差はあるが、歴代の人形の姿かたちは昔からほぼ変わらない。

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彩色用のべんがら

 瓦猿は安産祈願として、瓦牛は子どもの腫物治癒祈願として、市内の神社で今も奉納される。腫物のことを昔は「くさ」といい、草を牛が食べることにひっかけたものという。
 年間に100個ほどしか出ないというが、数年前に無印良品が正月に販売する「福缶」(缶詰の中に各地の郷土玩具を入れた福袋のようなもの)に採用され、その時は2500個もの注文があって、春から年末まで、淡路の窯元と共に大変だったとのこと。それでも、そのために瓦猿が知られるようになり、時々、遠くから買い求めに来る人がある。
 例えば、妊娠中のご夫婦が安産のためにと買いに来て、その後、「おかげで無事に安産できた」とのお礼状が届いたとか。また瓦牛も、アトピーを患った人が買い求めに来たそうで、瓦牛のひんやりとした肌触りが気持ちいいと言われたという。
 何ら科学的な根拠のない素朴な人形に、今も願いを籠める人。日本人の小さな信仰心が今も根付いていることに、ちょっと安堵したような気持ちになる。


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瓦牛(左)と瓦猿

 江戸末期に和歌山で暮らした女性の日記『小梅日記』の、文久元(1860)年3月の項に、瓦猿を孫の安産の御礼参りで奉納する記事があり、喜美子さんは「確かに江戸時代からあったものと確信できた」という。和歌山県下でも大半の郷土玩具が姿を消した今、野上ご夫妻はこの瓦猿と瓦牛を、何とかして次の時代にも繋げていきたいと言われていた。
 子を産む女性や病いにある人を守る玩具と、その玩具を守る人。いささか長居をしてしまったが、穏やかなご夫婦の優しさと、長く愛されてきた玩具をお土産に、帰り道の心の中は暖かかった。

※野上さんのHP http://www.kawarazaru.com/
(千葉孝嗣)



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2018年07月20日

東京民藝協会第36回定期総会

 6月2日(土)に維新號銀座新館で36回定期総会を行った。参加者は少なくて19人、本部から保坂事務長、鈴木さん、それにいつも会計をやって下さっている加藤さんが出席して下さった。
 決算については決算書を見ていただきたい。この何年かかけて、封筒以外の「たより」「決算書」「各種案内書」などの印刷物の外注をすべてやめたので、かなり経費を節約してきた。それでも収支はとんとんで、2011年以来様々な災害に対していくらかづつの寄付を行ってきたので、赤字が発生している。しかし一方会費の8000円は決して安くはないので、事務を預かるわたしとしては何か検討の余地がないかと考えてしまう。

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 さて今回の総会では、例年にない議題が持ち出された。これまで事務の多くを担当してきた藤田がこれまで通りの仕事ができなくなったので新しい体制を考えてもらいたい、ということである。これについて、珍しく活発な議論が行われた。すぐ結論が出る事柄ではなく、佐藤副会長、たくみの野崎氏、奥村氏、藤田ほかで検討するように依頼した。
 議事終了後懇親会を行った。
(藤田)

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2018年07月19日

民藝館「柚木展」手伝いのことと5月例会

 民藝館の春の特別展「柚木沙弥郎の染色 もようと色彩」が終わった(会期は4月3日から6月24日)。入館者は約32,500名で、これまでで最多だったとのこと。これには、NHKラジオ「ラジオ深夜便」と、テレビ「日曜美術館」の放送、放映の影響が大きかった。1日に500人を超えると、館の職員だけでは入館者の対応が難しくなるようだ。ましてや1000人、1500人になるとまず無理である。当協会にも手伝いの要請があって、16人、延べ45人を派遣?した。満足できる人数でもないが、ある程度動けて平日にも休みがとれる人ということになるとかなり限られてきて、これくらいが精一杯であった。私も何日か出たが、朝から1日中スリッパをそろえているという感じであった。

 といってもこういう状態はテレビ放映後6月に入ってからで、例会はそれ以前5月26日(土)だったのでさほどの混雑はなかった。参加者は13人、これでもちかごろでは多いほうである。
 展示の担当者月森さんが案内して下さった。月森さんはまず存命の作家の特別展は、棟方志功以来43年ぶりだとおっしゃった。存命作家の展覧会をやることには大きく言って2つの難しさがあるだろう。棺を蓋いて事定まるというが、存命作家の評価は必ずしも定まっていない。したがって、ある美術館なりが他に先駆けて存命作家の展覧会を行うことにはそれなりの危険が伴うものである。その作家を取り上げること自体がまず世間の評価の対象になり、もし時期尚早とかそもそも取り上げるに値しないとかいう評価が下されると、具合の悪いことになる、贔屓の引き倒しになってしまうのである。(反対にその作家の評価をさらに高めて、結果館の見識の高さも認められるような場合もあるだろうが)
 もう一つ、さらに厄介なことがある。それは作家が満足する展示を行わなければならないということである。展示する側には会場や費用など様々な制約があり、他方作家側の要求は無限大であろうから、この調整がかなり難しい。展示の方針が食い違うことさえあるだろう。展示者の苦労は想像に余りある。物故作家であれば、こういう心配はかなり小さい。「先生これでいかがでしょう」という時の恐ろしさ。きっと月森さんも夜眠れなかったり、飯が食えなかったりしたのではないだろうか----余計な想像だが。

 そして、今度の柚木展は柚木作品と民藝館との力が相まって、素晴らしい展覧会だったと思う。-----私などがえらそうに言うことではないのだがご勘弁を。
 特に、2階の第3室は、アフリカの仮面だの、朝鮮のオンドル煙突だのと柚木作品が一緒に並ぶという意表を突いたものだった。現代の芸術が原始的な芸術と拮抗するなんてなかなかないことではないか。月森さんは、柚木先生のものはこういうものと並べても決して負けない、むしろ並び立つ、だから思い切ってこういう展示をした、先生も喜んで下さった、とおっしゃっていた。
 大広間の展示も見事だった、と言いたいところだが、私の理解を越えていてなんとも言えないもので、ただ眺めてきただけである。入口に立つと正面のポスターにもなった着物---型染むら雲三彩文着物というそうだ、が目に飛び込んでくる、後ろを振り返ると燕が二羽天を舞っている、中央は平置きで6枚の大布、といった展示であった。正面は直ぐに決まったので楽勝かと思ったが、あとがなかなか決まらなかった、とは月森さんの弁である。(やはり眠れなかったのだ)

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 なお、展示に合わせて図録が発行された。筑摩書房、3月30日発行。展覧会の展示とは違う設定-----本館と西館のあちこちに作品をおいた設定で撮影した写真が並んでいて、柚木作品の多彩な美しさをまた見ることのできる写真集である。

 以上中途半端な例会報告です。    
 月森さん、民藝館の皆様ありがとうございました。
(藤田)
 
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2018年06月05日

手元の郷土玩具(19) 大竹和紙の鯉のぼり

 東京協会の例会で4回にわたり郷土玩具の話をされた、日本郷土玩具の会会長の中村浩訳さんからお電話をいただいた。久しぶりに濃厚な郷土玩具ばなしができて、とても楽しい時間を過ごした。
 中村さんの用件は、広島県下の郷土玩具の近況について、というものだったが、そうそう出歩いているわけでもないので、十分なお答えができなかった。
 そういえばと思い出したのが、5月23日付けの地元紙・中国新聞にあった、広島県大竹市で54年間、和紙に手描きで彩色した鯉のぼりを作ってこられた大石雅子さんが引退し、あらたな作り手に製作道具一式を引き継いだ、という記事だった。大竹和紙の鯉のぼりは手元になかったので、この機会に大竹まで出かけてみた。

 大竹市は広島県の西端で、隣りは名勝・錦帯橋と米軍基地で有名な山口県岩国市である。JR大竹駅から徒歩5分ほどの商店街の一角に、大竹和紙を使ったさまざまな製品を扱う「大竹和紙工房」という小さなお店がある。
 大竹の和紙づくりは安土桃山時代から江戸初期にかけて始まり、大正時代半ばには1,000軒もの製紙家があった。市内を流れる小瀬川の水と、上流部の山間地で生産された楮が和紙づくりに適していたのだという。しかし、洋紙の普及と沿岸部の工業化で和紙づくりは急速にすたれ、今はわずかに保存会がその伝統を継承している。


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和紙工房内の大きな鯉のぼり

 大竹の和紙を使った鯉のぼりは、その模様などを全て手描きで描く。大きいものは5メートルにも及び、風に煽られるとばさっ、ばさっと豪快な音をたてて空を泳ぐという。
 端午の節句に庭先で大きな和紙の鯉のぼりを揚げる家は、今では山間部にごく僅かしかないというが、2メートル以下のものは家の中に飾るにも適当な大きさで、今も買い求める人がある。
 今回入手したのは最少の90センチのものだが、手描きのうろこの勢いなどは、大きいものと同じ迫力がある。

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90センチの鯉のぼり

 11年前の平成19年、広島で日本民藝協会全国大会が開催された際、会場内の大きなテーブルの上で、大石さんによる鯉のぼりの絵付け実演があった。数メートルもある大きな鯉のぼりの、白い和紙の地の上に、大石さんは赤や黄色の絵具でうろこやひれなどの模様を、あっという間に描いていく。
 何もないところにためらいなく筆を運ばせて、数十分後には立派な鯉のぼりになったのを、初めて見た私はもちろん、全国から集まった会員から驚きの声が挙がったことを思い出す。

 広島市から大竹市に嫁いだ大石さんは、和紙の鯉のぼりを作っていた広島県和紙商工協同組合の理事長が亡くなった後、試行錯誤を重ねながら鯉のぼり作りを続けてきた。85歳になられた今年、大石さんの下で鯉のぼり作りを習った、墨画イラストレーターの杉本海さんに後を託すことに決めた。
 大竹から戻った午後、気持ちいい天気の下で、庭の木の枝に鯉のぼりを吊るしてみた。思った以上に軽々と、赤い鯉は早速泳ぎ始めた。
 旧暦の5月5日は、今年は6月18日になる。月遅れの6月5日や旧暦で端午の節句を祝う地方もあるという。だから、和紙の鯉のぼりはまだ堂々と、初夏の空を泳いでもいい。


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風に泳ぐ鯉のぼり
(千葉孝嗣)


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2018年05月22日

沖縄の映画2本「米軍が最も恐れた男 その名はカメジロー」「返還公証人-いつか沖縄を取り戻す-」

 先日「米軍が最も恐れた男 その名はカメジロー」という映画を見てきた。去年に公開されていたのだが、見そびれていた。瀬長亀次郎という、沖縄では圧倒的な人気を誇る---本人は誇っていないだろうが、政治家についてのドキュメンタリーである。題名通り、戦後米軍に占領されていた沖縄で沖縄人の権利を守るために米国、米国軍、そして日本政府と戦った瀬長を、古いファイルと存命の人々のインタビューをくみ合わせて描いた映画である。

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 公式ページの解説は以下の通り
 〈第二次大戦後、米軍統治下の沖縄で唯一人"弾圧"を恐れず米軍にNOと叫んだ日本人がいた。「不屈」の精神で立ち向かった沖縄のヒーロー瀬長亀次郎。民衆の前に立ち、演説会を開けば毎回何万人も集め、人々を熱狂させた。彼を恐れた米軍は、様々な策略を巡らすが、民衆に支えられて那覇市長、国会議員と立場を変えながら闘い続けた政治家、亀次郎。その知られざる実像と、信念を貫いた抵抗の人生を、稲嶺元沖縄県知事や亀次郎の次女など関係者の証言を通して浮き彫りにしていくドキュメンタリー〉

 それから、「返還公証人-いつか沖縄を取り戻す-」が6月あたりから公開される。昨年テレビのBSで放映されたそうで、それを再編集した映画とのこと。以下の解説も公式ページから。
 〈1972年5月15日、沖縄が、アメリカから日本に返還された。交渉が始まったのは1960年代。最前線に立っていた実在の外交官・千葉一夫は、沖縄から核兵器を撤去させ、ベトナム戦争の出撃拠点としないよう、激しい交渉を重ねていた。「鬼の千葉なくして、沖縄返還なし」。沖縄の人々の苦悩に真摯に耳を傾け、大願を成就させた伝説の外交官が、生涯をかけて貫いたものを描き出す〉

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 さて、来月6月に民藝協会の全国大会が沖縄で行われる。米軍基地の固定化一極集中を座視している我々本土の人間はどんな顔で沖縄に行ったらいいのか。物見遊山の気分では行けないし、柳はエラカッタで万事オーケーとすましている訳にもいかない。
 沖縄県民は今や、本土復帰は何だったのか、復帰したことが良かったのかどうか、と考えているだろう。また、柳がエラカッタかどうか、柳の沖縄理解については小熊英二らの批判があり、これも参照するべきであろう。こんなことを考えると、沖縄大会は楽しみでもあり憂鬱でもある。
 ------以上まとまりのない文になった。まあ映画紹介ということでご勘弁を。
(藤田)

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