2025年03月15日

「姉様人形と紙雛展」(横浜人形の家)

現在横浜人形の家にて「姉様人形と紙雛展」を開催しております。
郷土玩具の会会長(竹とんぼ)中村浩訳氏 所蔵(鈴木常雄氏 旧蔵)の姉様人形や館所蔵の各地の姉様人形を地域ごとに展示。過去の作品や文献を元に復元されている森春恵氏の全国の姉様人形も展示しております。
https://www.doll-museum.jp

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ー姉様人形とはー
和紙を縮らせ鬢を作り、千代紙などの衣装を着せた紙人形。子どもたちが日常のままごと遊びなどに使う手遊び人形として古くから親しまれていました。江戸末期には社寺の露店や地方の玩具店で郷土玩具として売り出され、地方によって顔を描いたもの、衣装のないものもあり、材料も紙以外に布、草、黍殻(きびがら)、土、練り物、或いはそれらを組み合わせたものなどで製作されていました。

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展示は3月23日(日)まで開催しており、
最終日にはトークイベント
「姉様人形を語る」3月23日(日)14:00〜15:30(事前予約)
登壇者として「日本郷土玩具の会 」会長の中村浩訳氏をお迎えして、姉様人形の魅力と特徴について語っていただくトークイベントがあります。
まだお席があるとのことですので、ご興味のある方は是非ご参加下さい。
幸田冬子(日本郷土玩具の会会員)
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2025年02月01日

福島県の郷土人形 「根子町人形」

 根子町人形を再現製作しております幸田と申します。現在オリジナルの土人形製作をしながら根子町人形の再現製作をし、一昨年から民藝館展にて出品させていただいております。今回、人形について少し書かせていただく機会をいただきましたので、稚拙な文章ですが読んでいただければ幸いです。

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根子町人形 三番叟(福島県立博物館蔵)

 根子町人形は清水町宿(現在の福島県福島市清水町)という奥州街道の宿場町で茶屋兼旅籠屋の仙台屋と隣家吉野家が江戸末期から明治、大正頃まで製作していた土人形です。
こんな伝承が残っています。

(信楽社『根っ子町土人形』より)
 江戸時代末ごろ、仙台堤人形窯元の若い嫁が、舅の嫁いびりに堪えかね、同情する若い腕ききの工人と共に江戸を指して出奔したが、途中清水町宿で女が急病となり、旅籠仙台屋に援われて助かった。逗留中人形師は、堤人形を造り店に並べた。それが評判となり、仙台屋の主人は二人のために屋敷内に工房を作り製作にのり出し、主人もその技を伝授されて自ら窯元となって製作したのにはじまるという


 様々な人が行き交う宿場町ならではのとても興味深いお話です。
根子町人形は素焼きの上に和紙が貼られ、胡粉を塗り、墨、顔料、染料で彩色されています。土人形に和紙を貼るのは割れなど補強で使用する程度ですが、全体に貼る事はなく、これは地元の粘土が荒く脆い為、補強として全体に和紙が貼られたのではないかといわれています。


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根子町人形 小鼓(個人蔵)

 先の伝承の通り堤系ではありますが、製作元に原型が残っていた記録があり、すべて堤人形を転用して製作していたわけではなく、独自の人形が作られていたことがわかります。各地の土人形もそうであったように、製作地の生活環境や文化、また作り手の人となりにより人形は変化していきました。
 根子町人形は絵画的表現に特徴があり、それを北原直喜氏は「軽妙洒脱の美」と評しています。
 (関西郷土玩具研究会『郷土玩具ギャラリー』創刊号・根っ子町人形特集(昭和55年1月発行))
 実際に堤人形、花巻人形、相良人形と見比べるとその雰囲気がわかるかと思います。
 その後、地元の人や宿場町を行き交う人々、行商先の人々により人形が売られていきますが、明治20年の東北線開通、陸上交通機関の発達により清水町宿は衰退し、またブリキ製の新興玩具などにおされ、養蚕農家が求めた蚕神の製作を最後に大正頃には根子町人形は作られなくなりました。

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三宝持ち(再現)

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鯛乗り恵比須(再現)

 なお、根子町人形について、菅野真一氏(宮城県白石市の郷土史家・こけし研究家)の推薦により東京民藝協会発行の「民藝手帖」228号(昭和52年5月)に福島市史編纂室長であった大村三良氏が執筆されています。
 この東京民藝協会とのご縁により全国に根子町人形が知られることとなりました。 
幸田冬子(土人形製作者)


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2025年01月31日

新年のご挨拶

会員の皆さま
 新年おめでとうございます。本年も民藝協会活動へのご理解とご協力、引き続きのお力添えをよろしくお願いいたします。会員の皆さまとともに会を盛り上げてゆくべく、役員一同様々な楽しい役に立つ企画を考えてまいります。
 昨年9月から始めた「白崎俊次氏撮影フィルムのデジタル化への募金」について、お陰様をもちまして1月末で目標金額500万円をなんとか達成することが出来そうです。本当にありがとうございました。デジタル化の保存を完了させ、民藝に関わる全ての方へ活用していただきたく、アーカイブス化のやり方なども検討してゆきたいと思います。そして、この画像データを使用した出版物の刊行も進めてまいります。どうぞ楽しみにお待ちください。
 先日、日本民藝館「仏教美学〜柳宗悦が見届けたもの〜」を見学し、月森さまに解説をいただきました。この学習の機会が得られるのも日本民藝館のお膝元にある東京民藝協会ならではです。日本民藝館学芸員、職員の皆さまに感謝いたします。今後なにかお困りごとがありましたら遠慮なくお声がけください。東京民藝協会会員を動員してお手伝いさせていただきます。
 そしてその日の午後、新年会を開催しました。新しい会員も参加され、楽しいひと時を過ごしました。先輩の参加者から「私はもう歳なのでそろそろ〜」とのお話がありましたが「いえいえ、これからもずっとご一緒にご参加ください!」とお伝えしました。会の運営には若い人たちの意見も必要ですが、諸先輩方の貴重なご経験とお知恵が必要なのです。これからも例会、見学会、懇親会等々、どうぞご遠慮なくご参加をお待ちしています。
 本年は5月24日に広島全国大会があります。また6月21日、22日には瀬戸市にて民藝夏期学校「瀬戸会場」も開催されます。この夏期学校は東京民藝協会が全面的にバックアップします。ここでも皆さまのご参加、そしてお力添えを重ねてお願いいたします。
 来年には久しぶりに東京での全国大会が予定されております。本当に忙しい一年がスタートしました。皆様のお力を総動員して、日本民藝館、日本民藝協会、東京民藝協会を大いに盛り上げてゆく一年にいたしましょう。
令和7年1月吉日。
東京民藝協会 会長 野ア 潤
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2025年01月28日

映画の紹介「ここにいる、生きている」

 この題名からどんな映画を思い浮かべるだろう。何かのドキュメンタリーかとまでは思えても、これが日本の海の昆布の話とは思えないのではないか。ポスターも監督の後ろ姿を中央に据えたもので、どうも意図がわからない。題名とポスターから、監督が主人公に見えてしまう。この題名はまずいと思うが、中身が興味深かったので紹介することとした。
 吉祥寺のアップリンクで上映していて、たまたまその最終日1月23日に行ったら上映後に監督の挨拶があった。写真はその時のものである。監督は長谷川友美と言う女性で、ほとんど単独で撮影した自主映画だそうだ。監督は逗子に引っ越したことをきっかけに、日本の海の様子が変わって沿岸漁業ができなくなりつつあるということを知った。その具体的な様子を知りたくて日本中の海を見て回ったという。

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 今日本の海は温暖化の影響で磯焼けといういわば海の砂漠化が進行している。大量発生した食べられないウニが昆布など海藻を食べつくし、ひいてはそこに住む魚もいなくなっているという。ウニは駆除しても駆除しても追いつかないほど増えている。この映画はその現状と、これに対する漁業関係者の戦いを取材したものである。
 私は磯焼けということを聞いてはいても、これほど深刻な事態になっていることは知らなかった。世をあげてうまいものを食いたいとか珍しいものを食いたいとかに夢中である。またことに近年は器にも関心が集まっている。しかし、その根本の食料生産がどうなっているかということについて、多くの人は無関心である。その無関心の裏側で地球上の耕地がどんどん失われ、種苗は世界的な大企業数社に囲い込まれ、それと関連して生物の多様性が失われてきている。この映画に即して言うと、昆布がウニに食い尽くされようとしているのだ。
 我々はこのような現状を知らなくてはならないし、このような現状を正そうとして困難な戦いをしている人がいることも知らなくてはならないのではないか。この映画でその一端を知ることができる。
 以上、簡単な紹介でした。
(藤田)

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2024年11月21日

11月例会2つ オンライン例会と民藝館見学

 11月1日(金)オンラインの例会を行った。「ブータンの社会と工芸」と題して久保淳子(くぼあつこ)さんに映像を交えたお話を伺った。久保さんはブータンが好きなあまり2年間滞在したそうで、その後旅行ガイドとして20年以上にわたってたくさんの人をブータンに案内してきた。5年位前、私はインド北東部、中国とブータン王国の国境あたりを旅行したのだが、その旅行を企画し案内して下さったのが久保さんだった。それがご縁で、今回お話をお願いして引きうけていただいた。

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 1時間ちょうどでブータン王国の概要と染織などの工芸を、映像を交えてお話いただいた。あとで受講者に聞いたら、話がとても上手で聞きやすかったし内容も面白かった、もっと聞きたいという感想が多かった。
 ブータンといっても日本ではあまり馴染みがないだろう。わたしも「ブータン山の教室」と「ゲンボとタシの夢見るブータン」という映画を見たくらい、ネパールやチベットとの区別もつかない。久保さんのお話はわたしにとっては勿論だが、会員の皆さんにとっても初耳のことが多かったのではないだろか。
 印象深かったことをひとつ、それは民族衣装のもつ意味である。ブータンでは公の場で、男がゴという、女はキラという民族衣装を着用することが義務付けられている。生徒の制服ももちろんこれである。この背景には多分ブータン王国がおかれた特殊な環境があるのだろう。ブータンの立国は地政学的になかなか難しい。そのうえ、民族と言語も多様だという。このような環境下、どうやって国民の一体感を形成するか、その対応策の一つが民族衣装の着用義務ということではないだろうか。衣装が寒暖の調整といった役割のほかに、文化的歴史的な象徴として機能していることに改めて気づかされた。-----そういえば昔、永六輔が天皇に和服を着てもらおうという主張をしていたっけ。
 国民総幸福という考え方、王室やチベット仏教の存在も、国民意識の醸成、統合に寄与しているだろう。国民総幸福と聞いて、私のような気楽な外部の人間は感心したりしているのだが、話はそう単純ではない。大概の人は物質的により豊かな生活に憧れる。近年は若年層のオーストラリアへの出稼ぎが盛んで、国内の空洞化が問題になっているとか。そのオーストラリア出稼ぎの人々が、高額なゴやキラをどんどん注文してきて、一時衰退していた手織りが復活しているそうで、いやはや世の中は複雑である。
 このオンライン例会には、45人が参加して下さってこれまでで最高の人数だった。久保さんのファンが半分くらいいたような感じであった。
 久保さん、ありがとうございました。

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 なお、久保さんの活動は「ヤクランド」というホームページで拝見することができる。さらに、旅行報告やブータンのことを広く紹介する「ヤクランド通信」というパンフレットを月刊で発行、なんと最新号は123号である。その最新号の表紙の写真を載せさせていただいた。またさらにもう一つ上げた写真は「ブータンのカード織」という冊子の表紙である。これも久保さんが制作しておられる。以上の2冊とブータンその他の旅行について関心のある方は、上記ヤクランドを見て下さい。カード織のほうは私の手元に1冊あるので、欲しい人は言って下さい。1500円です。

 11月2日(土)に、民藝館の見学会を行った。
 特別展「芹沢_介の世界」の展示で、担当の古屋学芸員に忙しい中ご案内いただいた。今回の展示も観覧者が多くて、館の迷惑にならないか心配した(迷惑にはなっているだろうが)。観覧中、話に出たのは、どうして芹沢がこんなに人気があるのだろうということであった。参加者は25人。今回は希望者が多すぎて、締め切り日以後に申し込まれた方はお断りせざるを得なかった。
 古屋さんありがとうございました。
(藤田)


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松平斉光コラム 松平斉光とシャルロット=ペリアン

 民藝にはお馴染みの、フランス人女性デザイナーにシャルロット=ペリアン(1903-1999)がいる。彼女は、昭和2年に24歳でル・コルビュジエのアトリエに入り、そこに遅れて前川國男や坂倉準三が来て同僚となり日本との縁ができる。

 他方、民藝史上では馴染みがないが、確かに柳宗理らと交流があり、ペリアンの友人でもあった人物に松平斉光男爵がいる。昭和5年にパリ大学に留学し、昭和11年に博士論文「Les fêtes saisonnières au Japon (Province de Mikawa) : étude descriptive et sociologique」(「日本の季節の祭礼(三河地方) : 記述的・社会学的研究)」)を提出しパリ大学の文学博士号を取得する傍ら、昭和13年には画家として「Au coin de la rue (街角にて)」をサロン・ドートンヌに出品した斉光は、学者でもありアーティストでもあった。

 その頃の日本政府は、昭和4年の世界恐慌以来の不経済の脱却を、貿易による外貨獲得にも求め、昭和12年商工省貿易局を外局化して拡充し、貿易品としての工芸品の輸出を促進すべく外国人デザイナーの招聘を模索していた。昭和15年初頭、この件は宗悦の理解者である貿易局施設課長水谷良一から宗理へ、宗理からすでに日本に帰国していた坂倉へと相談が行き、坂倉がペリアンを推挙し、商工省と島屋を代表して棟方志功が認めた8メートルの書簡がペリアンへ贈られた。坂倉のフランス語文を志功が描いた、筆のフランス語による賞賛の文句と墨絵に口説き落とされたペリアンは、商工省の輸出工芸指導顧問としての来日を受諾した。

 昭和15年6月15日、マルセイユから日本郵船の白山丸が出帆し、一等客室の旅客としてペリアンは日本へ2ヶ月の船旅に出た。出帆の前日には、パリにドイツ軍が入城し、翌日には、フランス首相に就いたペタン元帥がドイツに降伏を申し入れるという時であり、岡本太郎や藤田嗣治も乗っていた日本への最後の帰還船でもあった。

 船上でペリアンが写るツーショット写真の男性が斉光男爵その人である。ペリアンの斉光を始めとする日本人との交友関係の研究が俟たれるが、この二人は気が合ったようで、ペリアンは斉光との邂逅を「重要となる出会い」と自叙伝に記している。
 
 ペリアンと斉光は東京で再会し、ペリアンの職務に関しては、昭和15年11月12日の仙台の工芸指導所東北支所でのペリアン座談会の相手は斉光であり、12月19日の巣鴨の工芸指導所のペリアン訪問、同23日の座談会は斉光・宗理の同道であった。この座談会では『工芸ニュース』に「通訳は松平成光〔ママ 斉光〕氏を煩はした事を附記し、御好意を陳謝する次第である。」と書かれており、斉光が好意で通訳をしてあげたようである。
 斉光は、昭和17年1月には、ペリアンが前月のインドシナでの展示会設営にハノイへ向かってのち台湾に向かい、戦争の影響で足止めを喰らったため、速やかに日本に戻れるよう皇室に働きかけをもし、坂倉らと出迎えにも行っている。
ペリアンはその後日本が進駐した南部フランス領インドシナのダラットで終戦を迎えた後、日本の敗戦とともにフランスからの独立を目指してベトナム人たちの反乱が起きるのを横目に、昭和21年2月に母国行きの引き揚げ船に乗った。
帰国後日本の友人たちを案じるペリアンは、昭和23年5月に坂倉へ宛て手紙を認めた。宛先は坂倉であるが、文面の宛名は「親愛なる友人たち」と書いてあり、気に掛ける人物の中に、文化学院創設者西村伊作娘ヨネ・宗悦・宗理らと斉光が入っている。
 戦後ペリアンは昭和28年に再来日を果たしてから晩年まで来日を重ねた。その時にどういう民藝界の人々や、場所を訪ねたのであろうか。
 日本と民藝を愛したペリアンへの興味は尽きない。

シャルロット=ペリアン(北代美和子訳)『シャルロット・ペリアン自伝』、みすず書房、2009
シャルロット・ペリアンと日本研究会『シャルロット・ペリアンと日本』、鹿島出版会、2011
工業技術院産業工芸試験所『工芸ニュース』10(4)、丸善、1941

(世川祐多)
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2024年09月26日

手のひらの旅 ―手仕事を探して(全10回) 8 無限の点から生まれる宇宙

 今も東京で続けられている工藝をもう一つ訪ねてみよう。「江戸小紋」である。
 江戸時代はたびたび奢侈禁止令が出され、派手な色柄の着物は禁じられていた。それゆえ武士の礼装である裃は、藍、茶、黒などの色で、無地に近い小紋柄が染められていた。遠くでみると無地だが、近寄ってよく見ると細かい点柄でびっしりと埋め尽くされている。それは侍たちの隠れたオシャレだった。
 その後、町人文化が花開くと、江戸っ子たちがさらに粋な遊び心で着飾った。一見地味で渋いのに、じつは宝尽し、雪輪、松竹梅などの柄が、極小でちりばめられている。こうして発展した「江戸小紋」は、たとえ生活や文化が抑制されても、オシャレ心を忘れなかった江戸の人々の「意気地」の証しだった。

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 かつて神田川沿いには、たくさんの染物屋さんが軒を連ねていた。中野区落合で仕事をされている廣瀬雄一さんは、100年以上続く老舗の四代目。子供の頃から染め場で遊び、職人さんたちにかわいがられて、自然とこの仕事を継いだという。
 「昔の名人が作ったものを見ると、すぐにわかります。飽きがこない見事な美しさがあります。」と廣瀬さんは語る。そして自分もそんな職人技の高みを目指したいと熱く語る。
 型紙は昔ながらの伊勢型紙。1ミリにも満たない点が錐彫りされた渋紙を、長板に貼り付けた真白な絹地に乗せる。そして刃物のように薄く削った檜のヘラで、糊を刷っていく。初めはゆっくりと、次第に波にのるようにヘラが小気味よく上下する。型紙一枚分を終えると、ヘラを口にサッとくわえて型紙を両手で持ち上げ、継ぎ目に合わせて完璧につないでいく。
点が1個でも潰れたりズレたりすると、反物全体が台無しになる。まさに真剣勝負だ。刷り終えて型紙を持ち上げると、見事な連続模様が生まれていた。

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 「江戸小紋」の伝統な柄の一つに、「鮫小紋」がある。小さな点が集まり弧を描き、また次の半円が現れてつながっていく。それを鮫皮に見立てた柄だ。ずっと見ているとまるで柄自体が動いているように見える。不思議だ。
「鮫小紋には、永遠性を感じる。」と廣瀬さんはいう。小さな点が集まって、星のように円運動をくり返すこの柄は、まさに無限の宇宙そのものだ。
(服飾ブランド matohuデザイナー 堀畑裕之)

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2024年08月31日

『民芸手帖』編集者・白崎俊次撮影写真 デジタル保存について募金のお願い (昭和 30~50年代に残された手仕事や風物の記録、約7万枚のデジタル化プロジェクト)

 私ども東京民藝協会はかつて月刊の小冊子『民芸手帖』を発行しておりました。B6横判の機関誌で、民藝運動の裾野を広げる特色ある構成で親しまれ、1968(昭和33)年~1982(昭和57)年の25年間にわたって通算295号が刊行されました。
 この『民芸手帖』の取材、編集を主に行ったのが白崎俊次氏(1921~1984)です。白崎氏は取材を通じ、日本各地の手仕事や民家、民俗、民藝運動の仲間たちなどを撮影し、『民芸手帖』に掲載しました。
それら写真のもとになったフィルムのすべてが、このたび白崎氏のご遺族から東京民藝協会に寄贈されました。一部はすでに『民藝』2021年12月号の特集「白崎俊次と民芸手帖」にて公表されています。
 残されたフィルムは現在では失われた手仕事等も多く、貴重なものです。しかし、古いものは60年以上経過しているため、劣化が激しいのが現状です。そこで東京民藝協会ではこの貴重な記録を未来に残すべく、フィルムのデジタル化を早急に進めることにしました。まずは比較的整理された部分から着手する予定ですが、それでも35ミリ
フィルム約1800本、6万7000コマ、6×6フィルム370 本、4400コマあり、400万円以上の費用が見込まれています。
 つきましてはこれに要する費用について、会員の皆様のご協力を是非賜りたくお願いを申し上げる次第です。なお費用が準備でき、データ化が完了したあかつきには上下2冊の関連書籍を発行する予定です。その際にはお礼として書籍を進呈いたします。
 民藝や手工芸にかかわる作り手や研究者をはじめ、民藝に関心のあるすべての方々に活用していただきたく、白崎俊次撮影写真のデジタル保存を進めてゆきたいと考えております。みなさま、どうかお力添えをよろしくお願い申し上げます。

2024 年7月31日
東京民藝協会会長 野ア潤

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『民芸手帖』創刊号/1958年6月号

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宮崎・高千穂 岩戸神楽手刀男命戸取りの舞/1965年3月


○募金額 1口1万円(何口でも可)
*関連書籍の進呈は1口で1冊、2口以上で上下2冊を予定。
○募集目標額 500万円
○募金期間 2024年9月1日~2024年12月末日
○申し込み方法
東京民藝協会の決済サイトにアクセス
https://shirasakishunjiphoto.stores.jp
⇨ 募金専用サイトを立ち上げる
⇨「白崎俊次撮影写真のデジタル化募金」をカートに入れて決済
○問い合わせ先
「白崎俊次撮影写真のデジタル化募金」事務局
e-mail:shirasakishunji.photo@gmail.com


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熊本 楮炊き/1965年2月

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青森 弘前凧/1960年11月

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栃木 益子陶器荷作り/1962年3月
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2024年07月23日

『志賀さんをしのんで  志賀直邦追悼文集』を刊行しました

 長い間当東京民藝協会の会長、日本民藝館や日本民藝協会の役員をなさってこられた、たくみの社長 志賀直邦氏が逝去なさったのが2020年である。90歳だった。それからずいぶん時間がたってしまったが、この6月、やっと追悼文集を出すことができた。
 逝去後、会員ほか縁のあった方々に追悼文を寄せて下さるようにお願いして、ブログに順次掲載させていただいた。それらと、志賀さんのインタビュー、「民藝」誌にお書きになった文章を転載した。インタビューは映画監督のマーティ・グロス氏が2017年に民藝館の西館で行ったもので、その映像から書き起こした。転載した文章は「民藝運動のなかから 「たくみ」創立満五十周年を機に」「民藝運動と鄙の論理 再生への手がかりを求めて」「『民藝運動九十年の歩み』の執筆を終えて」の三本で、民藝編集部の村上さんに選んでいただいた。
 そして會田秀明日本民藝協会前会長、井上泰秋現会長、佐藤阡朗東京民芸協会前会長、尾久彰三日本民藝館元学芸部長、杉山享司日本民藝館常務理事、筑摩書房の藤岡泰介氏、たくみの元社員 世川進氏、高梨康雄氏ほか民藝協会の会員など、全部で19人の追悼文を掲載した。
 インタビュー映像を提供してくださったマーティ氏、扉の写真を提供してくださった写真家の藤本巧氏ほか、執筆して下さった方々に深く感謝申し上げます。

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 編集は澁川祐子さん、村上豊隆さんそしてわたくし藤田が、校正を加藤亜希子さんが、装幀を高橋克治さんが担当した。
450部ほど印刷して、当協会の会員と、各地地方協会、全国大会 山形会場の参加者等々に配布した。
 個人的なことを申し上げるのだが、志賀さんに大変お世話になった私としては、この追悼文集を出すことができてほっとしている。
 なお出西窯とその代表 多々納真氏から、この出版に対して5万円の寄付を頂いたことを皆様に
 ご報告します。出西窯と多々納さん、ありがとうございました。
(事務局 藤田)
  
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2024年07月22日

手のひらの旅 ―手仕事を探して(全10回) 7 ガラスに刻む心

 各地の工藝を訪ねる「手のひらの旅」は、地方だけにかぎらない。世界有数の大都市である東京にも、そんな手仕事がまだ残っている。
 つい150年ほど前まで、東京は江戸とよばれていた。震災や空襲で多くの建築物は失われたが、その伝統は手から手へと受け継がれてきた。そのひとつが「江戸切子」だ。
 切子とは、回転する砥石にガラスをあてて溝をつくり、紋様を描く工藝のことである。天保5年(1834年)、大伝馬町の加賀屋久兵衛が、ガラスの器に文様を刻んだことが最初の記録である。長崎や大阪に伝わった西洋のカットグラスの技法を参考に「江戸切子」は始まった。
 明治になり、鹿鳴館時代にはイギリスから本場のカットグラス職人が招かれて精緻な技術を「江戸切子」の職人に教えた。また維新後に衰退した「薩摩切子」の職人たちが東京に移り住み、華やかな「色きせガラス」の技法を伝えて、さらに彩り豊かに花開いていった。
 さて「江戸切子」の魅力とはなんだろう? 伝統工芸士で三代秀石を名のる堀口徹さんの工房を訪ねた。

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 「まずはこの美しいきらめき、そして色、陰影、さらに模様が反射して無限に拡がる映り込み。切子ならではの魅力です。」と教えてくれた。

 そしてふいに切子のグラスを手渡してくれた。私は思わず両手で包むように受けた。
「ね、こういうふうに皆さん必ず両手で丁寧に受け取ってくれるんです。人の所作すらも変える力がこの工藝にはあるんです。」
 では西洋のカットグラスとどう違うのだろう?
 「技法の上ではそれほど変わりません。しかし日本の場合は、文様に吉祥の意味が込められてきたんです。」
 「江戸切子」はお祝いや贈答品にされることが多いハレの器である。だから贈る人の願いが託される。
魔除けになる「籠目文」。
成長を願う「麻の葉文」。
子孫繁栄の「魚子(ななこ)文」。
そして喜び久しいことを祈る「菊花文」。
 文様に願いと祈りをこめる行為は、例えば漆器や着物など多くの日本の工藝に見られる共通の特徴である。
 たんなる美しさだけでも、デザインだけでもない。人の所作を無意識にいざない、大切な人の幸福を願う日本の工藝の伝統が、「江戸切子」にも確かに受け継がれている。
(服飾ブランド matohuデザイナー 堀畑裕之)
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