2023年02月26日

2月例会 民芸館見学

 2月17日に日本民藝館の特別展「生誕100年 柚木沙弥郎展」の見学会を行った。参加者は 16人。この展示は人気が高く入館者が多いので、会期末にならないうちに、また土日を避けて金曜日に行うこととなった。
 解説は展示を担当なさった月森さんにお願いした。月森さんはいつものように熱のこもった解説をしてくださった。そのお話をかいつまんで紹介しよう。民藝館が現存する作家の展示を行うことは極くまれである。ましてや短い期間をおいて2度行うことは前例がないと思われる。民藝館所蔵の柚木作品は140点余、そのうち 60点が柚木先生から寄贈いただいたもので、この60点はいわば作者自身が長年手元に置いていた代表作ということになる。今回は所蔵の柚木作品すべて(ポスターは6点のみ)を展示することとした。先生は由比の正雪紺屋で学び倉敷に戻って仕事を始められた。その最初期から100才の現在に至るまで、一貫して質の高い作品を生み出してこられた。だから、最初期と70年の時を隔てた現在の作品を一緒に並べてもまったく違和感がない。2000年代にいたるまでは主に実用を旨とし、近年は自己の表現に主眼を置いて創作を続けているにもかかわらずだ。またアフリカなどのプリミティブな造形や民藝の古作と並べても、なんらの遜色がない、むしろ互いに引き立て合ってしまう。これは驚嘆すべきことだ。
 その言葉通り、2階の大広間は柚木作品と古今東西の古作が隣りあって並んで壮観を呈していた。ある人が、「これは柚木邸の居間みたいですね」と漏らしたが、なるほどうまいことをいう。私には感想を言う資格がないのだが、これを柚木先生も認めておられるのだから、きっと立派な展示なのであろう。先生はご覧になって、自分の作品が余計なものと一緒に展示されているなどと思わず、これら全体が醸し出す楽しさ美しさを喜ばれたことであろう。いうまでもないことながら、この展示はやはり月森さんの解釈と創造であり、ほかに例をみない民藝館ならではの展覧会だった。
 月森さんには、西館の展示も含めて、1時間以上にわたって懇切な解説をやっていただき感謝に堪えない。月森さん、ありがとうございました。 
 -----なお、『民藝』1月号の表紙裏「展覧会この一点」に、月森さんが柚木先生の作品、「紅型風型染布」の解説を書いておられる。この作品は、先生が倉敷で作った初作品で、上京の折、柳に見せて買い取ってもらった記念すべき作品だという。若い柚木沙弥郎の感激はいかばかりであっただろう。
(藤田)

posted by 東京民藝協会 at 17:49| Comment(0) | その他

2023年02月23日

『民藝』12月号 「しめ飾り」特集について

 去年の、いや年があけたので一昨年のことになるが、秋ころ『民藝』編集部の村上さんから、「東京協会でしめ飾りの特集を担当してくれないか」という話があった。役員会で話し合ったところ、しめ飾りを毎年多数販売するべにや民芸店やたくみ、備後屋、それからしめ飾り研究家の森須磨子さんの協力を得られるとしても、東京協会単独で特集をまとめあげることはできない。各地方協会に取材をしていただいてそれをまとめることにしたらどうか、という提案となった。編集会議でその方針が了承されて、村上さんが各地方協会あてに急遽その旨を依頼した。その結果、地方協会から予想以上の写真と記事が寄せられて『民藝』12月号の特集ができた。
 東京協会でも会員に呼び掛け、同時に役員が手分けして東京近辺のしめ飾りの現場を取材することとなった。 野崎さん、世川さんが東日本橋、人形町、浅草橋方面、井坂さん、奥村さんが府中の大國魂神社、竹村さん、高橋さん、藤田が川崎の日本民家園へ行った。さらに奥村さんは愛媛県西予市、藤田は長野県宮田村に出かけて、個人の製作者を訪問した。松本の宮原さん(工芸店「工藝マエストロ」)が縄手通りの露店の売り場の写真を撮って下さった。野崎さんと世川さんの報告がP20に、奥村さんの報告がP32に、その他の写真がP28〜30に掲載されている。
 そして、表紙は、奥村さんの写真である。携帯電話で写真を撮ってくるつもりでいたところ、森さんに「それはないでしょ」と言われて、慌ててカメラを持っていたそうだ。手前にしめ飾りが大きく写り、背後にそれを作っている手が写っている。手前の宝結びにピントが合っているのだが、こういう写真はカメラでないと撮れないらしい。かくして、当協会も応分の役割を果たしたという次第である。
 出来上がった『民藝』を見ると、今でもこれだけ多種多様なしめ飾りが作られて飾られていることに驚く。しかもこれは全国からいったらほんの一部だろうからなおさらである。我々はどうしてこの季節になるとこういう役に立たないものを飾りたくなるのだろう。

tmk230223.jpg

 計画の段階から相談にのって下さった森須磨子さんが「しめ」の原稿を書いて下さった。森さんは こう書いておられる。
〈 整頓された作業場で、おじいさんが黙々、延々と縄をなっています。そこにあるのは時間と、藁の香りと、藁の擦れる音だけ。それをそばで見続けていた私は、少し頭がぼうっとしてきて、こんな言葉が浮かんできました。「しめ飾りとは「『時間』。/ 出来上がった「モノ」と同じくらい、制作している時間が大切だと感じたのです。この「今年」でもない「来年」でもない「真空の時間」が、日常を清算し我が身を無にし、新年への「まっさら」な心を生み出してくれる。〉
大晦日から元日といえどもひとつづきの時間だが、人はそれを年という観念で区切り、新しい年の表象としてしめ飾りというものを作ってきた。人はしめ飾りを飾って、またそれを見て新しい年が来たことを感ずる。そして森さんは、しめ飾りを作る人にとっては「出来上がった「モノ」と同じくらい、制作している時間が大切だと感じた」。その時間は「今年でもなく来年でもない真空の時間」だとおっしゃる。これまでにこういうことを言う人がいただろうか。わたしはすっかり感心しました。
 真空の時間とは、無の時間であり止まった時間であり、一様一方向に過ぎていく日常の埒外にあるものだろう。人間の心とその表象としてのかたち、時間というものの不思議さ、ものを作るという行為がもつ尊いと言っていいような精神作用等々、改めて考えさせれる文章であった。森さん、最初から最後までありがとうございました。 
そして地方協会の皆さま、取材に応じて下さった皆様、ご協力まことにありがとうございました。
(藤田)
 
posted by 東京民藝協会 at 19:00| Comment(0) | その他

2023年01月26日

奈良井宿を訪ねて

 昨年の10月中ごろ、木曽路は長野奈良井宿を訪れました。新型コロナが広まり二年半を過ぎ、そろそろ旅に出てもいいのかなと皆思い始めた頃です。人出が少し戻ってきていました。日中は山あいを抜ける風が何ともさわやかですが、陰るとぐっと冷え込みます。

tmk230126_01.jpg

 妻籠や馬籠と共に木曽路も知られるところになりました。宿場町の面影を残しながら環境を残し整え景観に一体感をもたせることで、かつての風情を感じられる街道沿いの町並みです。江戸期旧中山道木曽路は塩尻から中津川へ、東海道より日数がかかるものの女性や年配者でも往来できる険しさだったそうです。当時の土産物としてお六櫛やすげ笠、山へ入る際に持って行ったという弁当箱メンパなどは今に伝わります。
 木曽といえばヒノキが知られていますが、他にサワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキが木曽五木とされています。コウヤマキ以外は、見分けがつきにくく似てみえます。山を管理するのがだんだん難しくなってきているという話は幾度か耳にしました。

 木材それぞれの特徴を生かした品も作ってきました。今も近隣でサワラは樽や桶に、ネズコは下駄づくりに使われているのではないかと思います。隣の平沢は漆工芸が盛んです。主に家具や調度品、蕎麦道具や弁当箱などの曲物などが知られています。曲物は主にヒノキが使われます。木曽ヒノキを使った箸の木地づくりをされている方も、後を継ぐ方がいなくなってしまうかもしれないとのことです。
 地元の材料が使えたらいいのかもしれませんが、工芸品に使われるのは考えてみたらごく一部です。
林業や木工に携わる事業所や工場はまだまだ多いとは思いますが、一番は建材としての需要がなければなかなか産業としては成り立ちにくいのではないでしょうか。

tmk230126_02.jpg

 宿の東側街道と並ぶように奈良井川、塩尻から中津川まで篠ノ井線が走っています。ぶどう畑や木々の間を抜けていくのはとても気持ちがいいです。
 宿や店の奥を見せていただきました。街道沿いの間口の広さはそれぞれですが、入ってみると奥へ細長く続いていることがわかります。一旦外に出て山側は斜面を利用した階段式の家屋であったり、川側は篠ノ井線ができる以前は川を越えた先の方まで使っていたなど教えていただきました。なので自然と間や中庭ができたり裏側から日差しを取り込めるようになっています。
 かつて営林署による貯木場があったところは整備されカフェもある憩いの公園に。園内には総檜造りの太鼓橋が奈良井川にかかっています。この橋は”ふるさと創生事業”を利用し作られたとのこと。夜はライトアップされ、観光客にも地元の子供達が写生会をしたりと、結果なかなかいい名所になったようです。

tmk230126_03.jpg

 みなさまの記憶にも薄っすら残っているでしょうか、昭和の終わりから平成の初めにかけての”ふるさと創生事業”では、全国の各自治体に1億円を。。というものでした。箱物やモニュメント、整備費に充てることがやはり多いようですが、使い道に迷うとこんなことになるんだ。。という村営のキャバレーややたらと豪華なトイレなども。作ったはいいけれど維持できなかった事業も多々あるようですが、夕張の映画祭や風力発電などは今に続く好例かなと思いました。自分の住む地域に1億円でるとしたら。。何がいいのでしょうね。
 夕飯の後、宿のご主人から太鼓橋の話を伺ったのですが、金ののべ棒を買っておいた自治体が今となっては一番よかったかもしれませんね笑、というオチでどっとひと笑い、泊まり客を和ませて下さいました。
(栗山花子)
posted by 東京民藝協会 at 20:36| Comment(0) | その他

2023年01月24日

二十一世紀

 わたしが初めて志賀さんとお会いしたのは昭和六十二年六月だった。翌年の日本民藝夏期学校五城目会場の講師をお願いするために銀座たくみでお会いした。お願いした演題は「民藝と流通について」。志賀さんは快諾された。そしてその年の九月、夏期学校に先立って志賀さんを秋田にお迎えし、五城目町と当会会員を紹介しながら県内を巡った。移動はわたしの自家用車に乗ってもらった。
 その道々、増田町の織田兵太郎さん(けら作りの世話人)を訪ねたときのこと。招かれた座敷に一枚の色紙が掛けられていた。
 着物姿の男女が足並みを揃えて踊っているスケッチのような絵に「秋田音頭 美男美女の花ざかり この句は俳句に似たれど俳句に非ず 草田男」と添えられている。志賀さんが「中村草田男ですね」と尋ねると、織田さんは「草田男先生が増田を訪ねたとき当地の郷土芸能を披露した。そのとき書いてもらったものだ」「志賀先生は草田男先生をご存じですか」と尋ね返したのだった。
 志賀さんは高校時代、文芸部に所属していた。その顧問が中村草田男だった。あるとき草田男から「部に名前をつけてはどうか」と提案され、最初につけた名前が「井の中の蛙」だった。草田男は憤慨してその名を差し戻した。志賀さんは諮って今度は「二十一世紀」と名付けた。草田男は大いに喜んだという。
 わたしはこの話を聞いて、戦後間もないその時代に、十七歳の志賀少年が使った言葉として二十一世紀という言葉を心に残した。
 平成八年六月、志賀さんは入院中の相川さん(当時秋田県民藝協会会長)を見舞いに秋田を訪ねた。二度目の脳梗塞で倒れた相川さんは郊外の病院の一室で両手をベッドの支柱に包帯で拘束されていた。それを見た志賀さんは真っ先に担当医に頼んで包帯を解いてもらい、ベッドの背を立てて相川さんの話に耳を傾けた。
 見舞いを終えた帰りの車中、わたしは志賀さんから「今日の相川さんの話を『民藝の秋田』に書き残してほしい」と下命を受けた。
 その翌年、『民藝の秋田』第二十二号発行を目標に、わたしは相川栄三郎会長の名前で巻頭文を書いた。題名は「二十一世紀へ」。
 誰かの名前で文を書くのは初めてだったが、相川さんのことゆえ日ごろ聞いていたことを並べていくうちに何とか形が整った。最後に、濱田庄司が秋田県民藝協会に残した言葉を借りて「その時代の民藝とは、作った人の心、使う人の心の密度の深さを示す尺度となろう」と結び、平成九年八月に発行した。
 志賀さんは大いに喜んでくれた。
 このたび藤田さんから追悼文の依頼をもらい、こんな自慢のような話は趣意外れと思ったが、遠くなりにける志賀さんの思い出として書くことにした。
(秋田県民藝協会 三浦正宏)

志賀さんと角館にて.jpg
「角館の居酒屋「安吾」にて」

posted by 東京民藝協会 at 19:18| Comment(0) | その他

2022年12月29日

尾久彰三コレクション展のご案内

小原の郷にて現在開催中の企画展「尾久彰三コレクション展」のご案内です。

〜尾久彰三コレクション展(小原の郷)〜
企画展の会期等は小原の郷にお問い合わせください。


【ギャラリートーク+永楽屋見学会のお知らせ】
以下の日程で、尾久彰三氏ご本人に展示品の解説をしていただきます。
また、当日は小原の里から徒歩5分ほどの甲州街道沿いにある古民家永楽屋にも脚を伸ばして、永楽屋に伝わる古民具も解説します。

日時 1月29日(日)14時より
場所 小原の郷
 相模原市緑区小原711-2
 042-684-5858
posted by 東京民藝協会 at 20:42| Comment(0) | その他

2022年11月26日

11月オンライン例会 「河井寛次郎の声を聞く」

11月11日(金)の夜、オンライン例会を行った。参加者は少なくて12人だった。
去年、故白崎俊次氏の写真などをご遺族から譲渡していただいたことはすでにお知らせしたが、その中に録音テープがあった。オープンリールだったのでCDに移してもらった。聞いてみたら、河井寛次郎のインタビューらしい。色めき立ったのだが、実はこれの文字起こしをしたものが『民藝手帖』に掲載されたことが分かった。さらに『炉辺歓語』という単行本になって、昭和53年(1978)に発行されている。発行所は東峰書房という出版社で、社長の三ツ木幹人氏が東京民藝協会の会員であった。(池田三四郎氏ほか民藝関係の方々の本を発行しており、河井の『六十年前の今』『いのちの窓』『仕事(拓本復刻)』もそうである。)
 そのあたりのいきさつが『炉辺歓語』の折り込みに書かれている。筆者は岡村吉右衛門氏で、インタビューの聞き手も同氏らしい。柳の死後、河井、濱田はじめいろいろな人にインタビューするつもりで、その最初が河井であった。昭和37年(1963)に録音をしたのだが、それは予定していた全3回のうちの最初の1回であった。河井が逝去して後の2回を実施できないまま宙に浮いてしまっていたという。
〈そうこうするうち、河井記念館の落成記念として、白崎俊次君が民芸手帖に録音を活字にして載せたいという申し出があり、-------編輯を先生と親交が特別であった村岡氏がやって下さるならという条件付きで録音を白崎君に渡し、それが民芸手帖の連載になった次第である。〉と岡村が書いている。つまり白崎氏旧蔵のテープは、そのテープである可能性が高い。
 ------と、長々書いたのだが、例会ではこの録音の一部を聞いていただいた。録音は全部で5、6時間あると思われるが、そのうち目下民藝館で開催中の特別展「柳宗悦と朝鮮の工芸─陶磁器の美に導かれて」にちなんだ朝鮮関係の部分1時間ほどだった。河井寛次郎がどんな方であったか、なんとなく想像される音声であった。かなり以前のことであっても、昨日のことのように新鮮な感動を飾ることなく語っておられる。
 
追加の情報のようなものを以下に紹介します。
1、『炉辺歓語』は古本で入手可能です。定価2000円より安い。
2、河井の弟子 森山窯・森山雅夫氏の談話が『民藝』839号(11月号)に載っています。これは、大阪民芸館で行われたインタビューの記録です。
3、当協会の新入会員(法人会員)で株式会社ワールド・コラボ・ジャパン・諏訪郁緒里さんという方が、会社のホームページに、河井寛次郎記念館の学芸員でお孫さんの鷺珠江さん、森山雅夫氏、多々納真氏のインタビュー記事を載せています。
■河井寛次郎記念館 学芸員 鷺 珠江氏
(前編)https://creative-collabo.com/interview/kanjiro/
(後編)https://creative-collabo.com/interview/kanjiro/2.html
■森山窯 森山 雅夫氏 https://creative-collabo.com/interview/moriyamagama/
■出西窯 多々納 真氏
(前編) https://creative-collabo.com/interview/shussaigama/
(藤田)

                                        
IMG_1997.jpg
posted by 東京民藝協会 at 18:46| Comment(0) | その他

2022年10月16日

インド映画「響け 情熱のムリダンガム」……音楽とカースト制

 ムリダンガムは南インド地方で行われている民族音楽、カルナータカ音楽で使われる太鼓である。日本では、多分欧米でも北インド地方のヒンドゥスターニー音楽の方が馴染みがあり、太鼓もタブラの方が知られているだろう。タブラは片面の太鼓であるが、ムリダンガムは両面太鼓で、木を刳り貫いた胴に牛の皮が張ってある。演奏者はこれを前に横たえ、片方を膝にのせて両手で叩いて超複雑な、到底ついていけないようなリズムを刻んでいく。たまには胴をたたくし、なんといったらいいか理解不能なサワリのような微妙な音もだす。
 この映画はこのムリダンガムにとりつかれた青年の物語である。青年はたまたま巨匠の演奏を聞いて感動し、その巨匠に弟子入りを懇願するが取り付く島もない。なぜなら、カルナータカ音楽は神聖な音楽で、演奏者も神聖な階層の人間でなくてはならない、わかりきったことではないかと。実は青年の父親はムリダンガム作りの職人であって、獣の皮を扱うけがれたカーストに属しているのであった。インドのカースト制は複雑で詳細は不明だが、簡単に言うとそういうことらしい。演奏家が尊敬されているのに、その楽器を作る職人が賤視されるというのは解せない話だが。(同じようなことが日本にもあった、いや現にあるかもしれない。)しかし青年はそれを熱意と運で乗り越えて巨匠の弟子となり、さらに才能と努力で一流演奏家になっていった、とまあこんな筋書きである。
 そしていやはやインド音楽はすごい。青年は一時巨匠から破門されるのだが、そのときインド中を旅して、各地の打楽器を見たり習ったりする。その音楽と楽器、踊りなどの豊かさ、多彩さには驚くばかり。青年はそれらの音楽を経験して自分の演奏をより高めていく。超守旧派の師も最後にはそれを認めて「お前こそおれの音楽の継承者だ」と言う。めでたしめでたし。
 歌と踊りのインド映画ではあるが、普遍的に存在する工芸と差別の問題、古典と革新の問題にも斬り込んだ珍しい映画であった。渋谷のイメージフォーラムの単館上映らしい。
(藤田)


tmk221016.jpg
posted by 東京民藝協会 at 20:14| Comment(0) | その他

2022年10月06日

宮入さんの型染

 言わずと知れた日本のアパレル業界売上・店舗数共にナンバーワンといえばユニクロですが、そのユニクロのマガジン「LifeWear」の表紙に、なんと型染めがっ!

tmk221006_01.jpg

tmk221006_05.jpg

 しかも、なんとその作者が私のお友達で、東京民藝協会の仲間でもある宮入圭太さんなのです。
 6年前にInstagramで圭太さんの作品を発見し、彼の素直な感性にグッと来るものを感じて連絡を取ると、備後屋に良く来ているとのこと。すごく喜んで備後屋に飛んできてくれました。
 私のオンラインショップJAPANCRAFT55のロゴや名刺を型染めで作っていただいたのが始まりで、以来ちょこちょことお願いしたり、民藝のお話しをしたりしています。


tmk221006_04.jpg

tmk221006_02.jpg

tmk221006_03.jpg

 Instagramで作品を初めて見た時は、宝石の原石を発見したような気持ちでした。とても実直で謙虚な人柄が滲み出た素直な作品に、キラリと光る才能を感じました。
 独学で型染めを学び、柚木さんに憧れて、試行錯誤を重ねて、悩んで悩んで。
でもまだ多分発展途中だと思います。これからどんどん解放されて、伸びやかな作品ができるんじゃないかな。ユニクロさんに見つけてもらって良かったね。
 このマガジンは日本だけでなく世界中のユニクロの店舗にも置かれるんですね。世界に羽ばたいて行く日も近い!
 私のオンラインショップJAPANCRAFT55(ジャパンクラフトゴーゴー)も再始動したところです。郷土玩具を中心とした民藝の専門店。
 海外にもお届けできるように只今奮闘中。
 ぜひ訪れてみてください。
https://www.japancraft55.online

備後屋ずぼんぼ
posted by 東京民藝協会 at 14:58| Comment(0) | その他

2022年10月02日

2008年 パリでの柚木沙弥郎展(志賀直邦)

投稿がないので、いくらか古くなるが、前会長 志賀直邦氏がお書きになった標記の文章を紹介する。これは以前の『東京民藝たより』第66号(2009年1月発行)に載ったもので、日仏交流150年記念の行事としてパリで行われた民藝に関する2つの展示を紹介したものであった。掲出するのはその一部、柚木展の報告である。もう一つの展示は、「日本における民藝のエスプリ展」(ケ・ブランリ美術館)であった。(藤田)
          ***

 もうひとつ特筆したい企画展は、ヨーロッパ・ギャラリーで10月3日から開催されている「柚木沙弥郎・浮遊する領土」展である。場所はパリ中心部、サンジェルマン・デプレ教会の近くの画廊の多い地区にある。
 柚木氏は染色工芸家として知られるが、近年自由な境地を得て、型染だけでなく、リトグラフ、モノタイプ、リノ・カット、謄写版、カーボランダムなど多岐にわたる「版による表現」に取り組んできた。益田裕作によれば、これほど多くの版形式を自在につかいこなし、独自の作品を作り出した作家は、日本では柚木以外にはいないという。ただ、これらの多種な表現は、いかに意欲的な作家といえども、孤独なひとりだけの作業で作り出すことは不可能だ。アトリエMMGとの出会いがなければ生まれてこなかった、と益田は言う。
 本展では型による染布が主たる展示であるが、それらをテキスタイル・デザインとしてみるのではなく、コンテンポラリーな造形表現としてみようとする。
 私は柚木氏の原点に、芸術家であった祖父や父から受けた資質の外に、同時代的なもの、とくにエコール・ド・パリやロシア・アバンギャルドを想像するのだが、それはそれまでの様式美に対して、より民衆的で平易な表現を感じさせるからである。
 柳宗悦の「工藝の道」に教えを受け、染色の芹沢_介に師事し、時代の子として明快で自由な表現を旨とした柚木氏の仕事は、これからも私たちを楽しませ、生きることの意味を問いかけ続けることだろう。(後略)

posted by 東京民藝協会 at 19:02| Comment(0) | その他

2022年05月26日

ある社会運動家の半生――『平和と手仕事』と吉川徹氏

 『民藝』誌5月号に「信州佐久・望月のお味噌仕入れとおなっとう」という記事が載っている。長野県佐久市望月町で味噌づくりを共同作業でやっているという内容で、筆者は吉川徹氏、「多津衛民芸館」の館長である。多津衛民芸館というのは、長野県佐久市にある民芸館で、5、6年前には民藝夏期学校を主催していただいているし、ご存知の方も多いだろう。この記事で思い出したが、多津衛民芸館では年に一度『平和と手仕事』という機関誌を発行していて、去年の秋に26号がでた。そのなかに「私の半生と反省 社会教育という仕事に生きて」という回顧録があり、これが吉川氏によるものである。拝読してぜひ紹介したいと思ったが書けなかった。内容が立派すぎて、どう紹介したらいいかわからなかったので。だがブログの記事がなくて、『たより』が白紙になってしまうので、駄文を書くこととした。

tmk220526_01.jpg

 吉川さんは1937年、昭和12年東京生まれ、戦中戦後の貧しく厳しい生活を経験した。1962年(昭和37)に宮原誠一(当時高名な教育学者)の推薦で、長野県の望月町(佐久市に合併される以前は町だった)に最初の社会教育主事として就職、のち場外馬券売り場設置反対運動をきっかけとして1999年(平成11)に望月町町長になった。町民が切実な問題に直面していたという事情があったのだろうが、にしても60歳あまりのよそ者の役場職員が町長になったのだから、希なこと、驚くべきことである。吉川さんは30年余の役場勤めの間にそれほどの人間関係を築き、町民から信頼される存在になっていた。任期4年を勤めた後、次の選挙には敗れた。在地の旧勢力は強いうえに、旧勢力に反対する側にも時に党派的な思惑があり、それが選挙を侵犯してくる。
 吉川さんは町長の時はもちろん、それ以前もそれ以後も、いつも住民とともにその時々の生活の問題を話し合って解決しようとした。上記の場外馬券売り場設置、佐久市との合併、佐久病院改築等々、上からの押し付けに対して異を称えるとき、教条的な方針を持ち込む運動家ではなかった。〈外からの開発に反対して「地域を守る」というだけでは、「ではどうやって生きていくか」という問いには答えられない。抵抗の中で、自分たち自身が地域を作っていく、行きていかれる地域を作っていく、これが必要ではないか。(中略)「抵抗」から「抵抗の中の創造へ」という言葉が私たちのテーマになった。〉と書いておられる。さらにまた、〈お上を糾弾することがあっても、民衆を糾弾してよいのか。このことを主張して、わたしは解放同盟から激しく批判された。〉とも書いておられる。公正な思考とそれを主張する勇気の持ち主、それが吉川さんであった。

tmk220526_02.jpg

 町長選に敗れてから随分経つが、吉川さんは相変わらず忙しい生活を送っておられるようだ。「私の半生と反省」を読むと、沢山の団体に参加し、歌を歌ったり、三味線を弾いたり、古文書を読んだり、「未来工房もちずき」の理事長や佐久病院の外部委員や「佐久全国臨書展」の実行委員長を務めたり、そして「多津衛民芸館」の2代目館長である。
 吉川さんにとって、多津衛民芸館に関わる活動はそれまでの社会運動の延長線上にあっただろう。多津衛民芸館の初代館長、小林多津衛は戦前にいわゆる白樺派教師の1人で、若いころから民藝品の蒐集も行っていた。それら蒐集品を所蔵展示するために、1995年(平成7)寄付によって建設されたのがこの民芸館である。小林には戦時中の教員生活において国策に抵抗できなかったという苦い反省があり、戦後は平和を説いてやまなかった。この平和を希求する思想を民藝の思想に組み込んだ(その逆かもしれないが)ところに小林の考え方の特色がある、ような気がする。-----浅学なので断言はできないけれど。だから、機関誌の名前は『平和と手仕事』なのである。
 前後するが、そもそも望月町が社会教育主事を置くことになったのは、青年団等の強い要望によるもので、それ以前に小林多津衛の公民館館長就任という伏線があった。小林公民館長の誕生で青年団や婦人会等の活動はますます盛んになり、やがて社会教育主事設置請願の話になったという。小林公民館長といい吉川社会教育主事といい、実際に活動している人たちの推薦に行政側が応ずるという時代があったのだ。
 小林や吉川さん、そして多津衛民芸館の民藝へのかかわり方は独特である。やはり『民藝』誌5月号の編輯後記に編集長の高木氏が書いている。〈民藝運動は誰かに価値を決めてもらったものを集めて回ることではなくて、自身の目の前に現れたものとしっかり向き合い、感じていくことの積み重ねで成立してきたものだ〉と。「誰かに価値を決めてもらったものを集めて回ること」しかしてこなかったわたしに何かを言う資格はないが、吉川さんのような方がおられることを紹介したいのであった。
 『平和と手仕事』を読みたい方は多津衛民芸館に問い合わせて下さい。
(藤田)
posted by 東京民藝協会 at 11:33| Comment(0) | その他