2021年01月25日

訃報をお聞きして

 志賀さんはジェントルマンで、風流人で、冠木門のあるおうちに住んでいらっしゃるような方だなと遠巻きにお見受けしておりました。
 会の集まりの食事の場所はいつも素敵なところで開いていただき、旅行もフツー旅行ではなく、何かしみじみしたものがある旅行でした。
 今までの旅行で一番印象深いのは、1998年頃の民芸の旅行で蓮如上人の城端別院(富山県)で行われた夏期講習会です。別院に泊まらせていただくという貴重な体験をさせていただき、朝は4時ころから檀家さんたちが集まり、朝食を作りもてなしていただきました。そのお食事のおいしかったこと。そのころグルメ雑誌をにぎわしていた有名レストランのものとはまるで違う次元のものでした。広いお堂を歩き回っても白いソックスが奇跡的に全く汚れませんでした。蓮如さんの奇跡かと思うほどでしたが、檀家さんたちのご奉仕できれいになっていたのでしょう。講演の休憩時間にはお庭を見渡す畳にのびのびと寝転がっている人もいて、のどかだけれど、民芸のことを真剣に知りたいと思う人たちが集まってよい会でした。志賀さんが企画される旅という感じでした。
志賀さんのご冥福をお祈りいたしますとともに民芸協会のさらなる発展を願っております。
(原 和加子)

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2021年01月22日

福岡のあまねや工藝店の本『くらしにあかりをともすしごと』

 畏友川口義典氏の本が出た(友と言うことを認めてもらえたらのはなしだが)。本の名前は『くらしにあかりをともすしごと』。彼は福岡市内で「あまねや工藝店」という店をやっている。それが創業40年になったので、周囲の人たちが記念に出版してくれたそうだ。こんなことはあまり聞いたことがない、希なことである。私はいまだに彼の店を見ていないのだが、そういういいお客さん、ファンを獲得してきたのだから良い店に違いない。店をやるという事を聞いて、きっと良い店になるだろうとは思っていたが、世の荒波を乗り切ってそれを実現してきたのだから立派なものである。

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 いまから40年以上まえまだ若いとき、彼は東京にいて、秋岡芳夫さんたちがやっていた「1100人の会」なる会の会員だった。私も会員で、気の合うことがあって、というか私が彼の能力に敬服していた。かなり理屈っぽく、モノにうるさく詳しく、駆け出しのわたしには文字通り畏友であった。彼にはいろいろなことを教わった。フィリピンのパシキン(背負い籠)やタイの藤ボール(セパタクローという球技につかう)、型ガラスの醤油差し、ネパールかどこかの薬缶などそれまで私が見なかったモノを見せてくれた。モノばかりでなく、坂田という店があることを教えてもくれた。世にブルガリアンボイスなるものがあることを教えてくれたのも、コーヒーミルはスポングだと断定してくれたのも彼である。ついでに車はルノー・キャトルがよろしいとのことだった。ブルガリアンボイスのCDとスポングは買った、坂田とキャトルには無縁であったが。

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 やがて彼は工芸店をやるといって福岡に帰っていった。その後は、たまに来る展覧会案内で遠く様子を伺うくらいだったが、今度の本を見て、----詳細な年譜がついていて、販売や展覧会ばかりでなく講演会、音楽会、学習会など様々な文化事業?を継続して行ってきたことを知った。それらの全体が即ち「くらしにあかりをともすしごと」だった。個人経営の工芸店としては目覚ましい活動であり、その積み重ねが今回の記念誌発行に至ったのだからえらいものである。(その年譜は実は本誌中になくて、いわば付録の挟み込みになっている。記念誌であるなら年譜は本の中身そのものではないか。社史や伝記に年譜が付録で挟み込んであるようなもので、どうもわからぬ。)
 本自体の内容は彼がこれまでに扱ってきたもの、好きなものの紹介(写真と文)と、折々の活動報告のような感想のような文章からなっている。紹介しているモノが広範囲、多岐にわたっているのが特徴だろう。「くらしにあかりをともしてくれる」のは決まりきったせまい範囲のモノだけではないからだ。こういう姿勢は疲れると言えば疲れるが、川口氏はそういう人である。そして当然のことながら、------目のない私が言うのもはばかられるのだが、類品中の優品が選択されているようだ。さらにまた、私にはわからない高級なモノも加わっている。添えられた文章は意を尽くしている、と思う。実のところ、いささか気取った文章で疲れるのだが、氏はそういう人である。

 なるほど世の中にはこういうものがあるのか、とあらためて感心させてくれる本である。
 モノが好きな人には楽しい本だと思うので、私情を交えて紹介しました。
 (ところが困ったことにこの本には定価が書いてない。また書名が帯にしか書いてないという不可思議な本なのである。聞いたら、定価は3,500円✚税で、書名がないことは発行者たちの意向で、印刷もれではなくなにか特別な理由があるとのことであった。)
 問合せ先は、 amaneyabook@gmail.com
(藤田邦彦)

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2021年01月17日

志賀直邦さんとの思い出

 私は、日本民藝協会の事務局に勤めていて、同時に『民藝』誌の編集実務にも携わっているので、民藝にまつわること(特に民藝運動に関わった人物についてのことが多かったと思う)でわからないことがあると、いつもたくみの志賀さんにお電話をしていた。志賀さんのお話はご存知の通り少し回り道をするが、大概のことは知っておられ、まさに民藝の生き字引のような存在であった。
 志賀さんの功績はたくさんあるが、私がとても思い出に残るのは、志賀さんの著作、ちくま学芸文庫の『民藝の歴史』についてのことだ。この本は『民藝』2013(平成25)年1月号から2016(平成28)年1月号までの36回、足かけ3年にわたって連載された「民藝運動90年の歩み 白樺の時代と、民藝美の発見、その展開」が元になっていて、連載時にはほとんど毎月まとまった文章を寄稿していただいた。時には徹夜して書き上げた回もあったそうだ。常に原稿をカバンの中にいれて持ち歩き、その都度書き加えられていたのだろう。書き上がると、どこかおかしいところがないかと、私にまで聞いてくださって、その謙虚さは見習わなければと思っている。連載が終わる頃には、少しお疲れが見えることもあった。毎月の連載を3年も続けたことは相当なストレスだったと思う。少し無理をさせてしまったのではないかと、当時のことを考えるといまも申し訳なく思うことがある。しかし、ご自身の著作が筑摩書房から刊行されることが決まった時には、どこか本当にほっとされて、またとても喜んでおられた様子が感じられて、私も嬉しかった。この本は、民藝を学びたいと思う人たちにとって必読の書だと思う。
 晩年には、何度かご自宅にお邪魔する機会があった。たくみのこと、民藝館のこと、民藝協会のこと、いわば民藝運動の3つの柱と言われるこれらのことに最後まで心配をしておられた。こんなに深くそれぞれのことに同じくらいの想いを持っている方は今後現れないだろうと思った。それほど親身になっていた。表に出すことが難しいさまざまなご苦労なども伺った。学生時代に新聞を発行していたことや、昭和20年代まで発行されていた『たくみ』を自身で復刊し編集していたこともあってか、批評的な視点を常に持ち社会情勢にも敏感であった。細かな資料も大切に保管しているようだった。たくみや民藝協会、民藝館の中心にはいつも志賀さんがいた。このことも、お話を伺った際にあらためて実感したことである。
 志賀さんはいつも私たちを引っ張ってきてくださった。誰もが志賀さんを慕い、頼りにする存在であった。うまく言葉では表現できないが、志賀さんが伝えたかったことは何だったのか、いまも反芻することがある。『民藝の歴史』のあとがきに「民藝運動は、常にその理念だけではなく、人びとのより良い暮しと未来を実現するための実体を兼ね備えた運動でした」とある。あらためて『民藝の歴史』を読み返しながら、志賀さんの想いに触れたいと思う。
 ご冥福をお祈りいたします。
村上豊隆(日本民藝協会事務局)


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2020年12月17日

志賀さんとのお別れ

その日は必ずやって来る、と解っていてもお別れは悲しいものです。
志賀さんがお亡くなりになりました。
「悲しい」を上回る「寂しさ」と「心細さ」を感じました。
何時、どういう場面で初めてお目にかかったのか記憶にないくらいに自然にお声を掛けて下さり、恐縮しながらも楽しい時間を頂きました。
夏期学校同窓会が発足しお手伝いすることになり、夏期学校委員にそして常任理事にと、その都度「していただけませんか?」と優しくお声かけくださいました。あまりにも自然におっしゃるので、「はい。」とお答えしてしまいました。
経験、年齢、立場などに拘ることなく「同志」として常に接してくださいました。
思案に行き詰り、お電話すると丁寧にお話して下さいました。
これから、どうすれば良いのでしょう…。
大先輩たちは、皆さま同じ目線で接してくださいました。
これからの方たちに、先輩たちがお示し下さったことの何十分の一でも伝えることが出来るのか、と思うと心細さを感じてしまいます。
志賀さん、備後屋の岡田さん、富山の水木さん…あちらの世界は楽しそうですね。
先にいらした方たちに現状をお話される志賀さんが思い浮かびます。
常に前向きだった志賀さん ありがとうございました。
小市璋子(上田民藝協会)
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2020年12月12日

日本郷土玩具の会 中村会長の新刊『厄除け郷土玩具』

 当協会の例会で何度もお話をしていただいた日本郷土玩具の会会長、中村浩訳氏の新刊である(浩訳は「ひろしやく」でなくて「ひろのぶ」)。本の名前が『厄除け郷土玩具』、頭に「厄除け」を持ってきたのが味噌で、中村氏なのか編集者なのか知恵のある人はいるものである。表紙に「疫病退散!」の文字、見返しが朱で疫病除けの色、さらに扉にも「疫病退散!」、装丁も狙ったものだ。
 内容は、表紙に「古来から伝わる縁起物186品」「入手先・由来・ご利益のすべてがわかる」と書いてある通りである。郷土玩具はもともと庶民の何らかの信仰や願いを反映させたものというから、つまりは縁起物ということである。たいがいの場合そのことは忘れられているようだが、それにしても現に作られていて入手可能なものがこんなにもあるということに驚く。知らないものも多い。それらの全体的な印象は、きれいに作られていて元々のヘタウマ的な良さは薄れているのだが、みな愛らしい、カワイイのである。-----私のような老人がこんなことを言うのも気持ち悪いが。

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 それぞれの玩具は、見開きで右ページに写真、左ページに由来や現状など知識がふんだんにつまった解説で紹介されている。これを読めばそれぞれの玩具の縁起物たる所以をも知ることができる。繰り返しになるが、郷土玩具の類がまだこんなに残っていて、しかも入手できることに感心する。
 見開きの写真は「木の葉猿」で、これを作っている永田家は熊本民藝協会の会員である。奥様は歌がとてもうまい。
見て楽しい、読んでためになる本です。パンフレットをいただいているので、お知らせ下さればお送りします。
 誠文堂新光社 2020年11月発行。1800円+税
(藤田)

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2020年12月08日

志賀さん旧蔵の小壺

 我が家に鎬手の黒釉小壺がある。二十年程前だろうか、銀座たくみの「蔵出し市」で購入したものだ。「たくみ」の取扱商品としては珍しく、新作ではなく、王朝時代十九世紀末の琉球壺屋で焼かれた小品である。口に多少のほつれはあるものの、素晴らしい姿の優品であったことから、即座に購入を決めた。
 壺屋黒釉鎬手の小壺は、一般的に対瓶型(ついびん)の物が圧倒的に多い。しかし「たくみ」で売られたものは、非常に数が少ない珍しい形状の物であった。勝手なことを言わせていただくが、恐らく柳先生や濱田が存命ならば、必ず手にする一品だと思っている。

 こうして私は、この小品を喜んで手にしたわけだが、何とこの小壺を放出したのが志賀さんであった。そして店に居合わせた志賀さんの話が、ここから始まった。恐らく志賀さんの話は、長くなることを皆さんご存じだろう。左右左と横道にそれながらの話が始まった。結局、志賀さんが言うには、「東京都民芸協会であったか、関係の人と乃木神社の骨董市を覗いてみた。すると壺屋の鎬手の小壺がある。店主にあれこれ言って値切って買ったものだ」との内容であった。恐らく鎌倉に転居される前であったのか「あることも忘れていたので、好きな人に楽しんで貰いたいと思って出した。神保君が買ってくれたの」と買った私以上に喜んでいただいた。


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手前が志賀さん旧蔵の小壺。壺屋焼き 黒釉鎬手対瓶 19c

 その後、この小品は、恒例とする私家版年賀状の図版に採用した。この際も、年明けに「たくみ」を尋ねると、「今年は、私が持っていた壺屋の年賀状を戴いた」と嬉しそうに話をされたことを思い出す。
我が家に来て以来、地味なものではあるが、志賀さんの思い出と相まって益々愛着がます小品である。

神保 郁夫
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2020年12月02日

志賀直邦さんの冥福を祈る

 二〇二〇年令和二年九月十五日 九十歳の齢で旅立たれた志賀さん、 将に卒寿を祝った写真に見たそのお顔と表情はかなりお痩せに成られてはいても、奥様や娘さんと共に、微笑みを浮かべて幸せそうでした。それからひと月ほどで、黄泉の国へ旅立たれるとは思ってもいませんでした。
 何故か、何方も「志賀会長」とか「社長さん」と私達協会員は云いませんでした、常に「志賀さん」、と呼び慣れていました。
 またどんな切り口からでもお話は始まり際限なく続き、打ち切るのが難しい方でした。何かまだ声が聞こえてきそうな気がします。
 志賀さんから民藝と民藝運動を抜いたら何も残らないのでは?と思うほど「たくみ」と東京民藝協会とに人生をかけられ、たくみの使命に背くことなく尽くされ、書「民藝の歴史」を著わすほど多くの民藝人と交わった方です。あれほどの交際や繋がりをもってしかも皆さんから憎まれず、穏やかに愛された方も居られないのではと思います。
 「たくみの社長と東京民藝協会の会長は生涯続ける、島岡さんからそう言われてね」と事あるたびに嬉しそうに誇らしげに言い、「佐藤君、李下に冠を正さずの格言のように、自ら律して行かねば、人の批判は出来なくなるよね」と遂に乞われても組織の上に決して立とうとしなかったのは、私は「見事な意志力だ」と感心したのを忘れません。貴方には貴方なりに生涯守る物と譲れないことが有って芯がしっかりしてぶれなかったと思います。もうお逢いできないのはさびしいのですが。私なりに人となりを勉強させて頂きました。
 今は、天国でたくみへの入社を後押ししてくれた柳宗悦さんや民藝の第一・第二世代、の先生方とお会いし、談笑されて居られるかもしれませんね。志賀さんのことです、広く後顧の憂いが無い筈はないと思います、しかし不甲斐ない私達ではありますが、その憂いが一つでも消えるよう未来に努めようと思います。長い間のお勤めご苦労様でした。ご家族のみなさんに見守られて旅立たれたのは不幸中の幸いと想います。
 志賀さんのお人柄に感謝申し上げ、追悼の言葉といたします。
令和二年十一月三十日

佐藤阡朗

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2020年11月27日

岡田さんのこと

 佐藤さんの文を拝読して、その中に岡田さんの書とその展示会に触れたところがあるので、それに関連したことを紹介します。「東京民藝たより」の平成14(2002)年6月、第51号に、その記事を載せました。その記事は私が岡田さんにお聞きしたことを書いたもので、以下はその一部です。
   ***
 備後屋民藝店を訪れるひとは、品名ほかいろいろの表示が、白い紙片に墨書されているのを見るだろう。それらは店主の岡田さんがお書きになったもので、いつだったかそれについてお聞きしたことがあった。おっしゃるには「自分は正式に書を習ったことはないが、必要だったので、恥さらしをしている」というお話であった。
小生のようなものが申し上げるのは憚られるのであるが、その清潔で勁い字の姿はいかにも民芸店にふさわしく、また筆の字の美しさというものを感じさせて下さるものである。小生のほかにも岡田さんの書に関心を寄せるひとは少なからずおられて、その方々が自然に、こういうものを書いてくれないか、とういう注文を寄せられるようになった。さらにそれらの求めに応じてお書きになったいろいろな文字をご覧になって、自分のところで展覧会をしないかという方まであらわれたのである。 (中略)

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 「とうふ」と「豆腐」の文字である。この書としては一風変わった文字は、映画評論家の白井芳夫氏の依頼から生まれたそうで、そもそもは、小津安二郎が-----自分の作る映画は豆腐みたいなものだ、というようなことを言ったことに因っているそうである。白井氏はこのひらがな三文字の書に、藍染の表装をして所蔵なさっているという。 (中略)
 岡田さんの書は、美を狙ったものでなく必要から生まれたものである。岡田さんの書も豆腐みたいなものなのだろうと思った。
   ***
 で、「豆腐」「とうふ」の書を転載させていただきます。
 佐藤さんも触れておられる通り、当協会の封筒の協会名ロゴは岡田さんにかいていただいたものです。全国大会の時に、大会冊子の表紙の題字にとお願いしたもので、それを転用しました。いい封筒になったと思います。
岡田さんは物静かな方でした。話し声もひくくて、顔を寄せるようにしてお聞きしたことを思い出します。晩年になってからにぎやかな性格になったとは、娘さん楠本さんのお話です。いつも素敵なお召し物でした。ジャケットやシャツ、いつもいいなあと思って拝見していました。略歴を拝見すると、学徒動員も経験なさっているそうです。また民藝店を創業して東京を代表するお店になさいました。ご縁に感謝しています。
(藤田)

 
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2020年11月22日

11月例会

 11月15日、日曜日の午後、久々に例会を行った。2月に同じ会場で、石井勝恵さんのお話を聞いて以来である。できれば週末の夜、ダメなら土曜日にしたかったが、会場は目下のコロナ騒ぎで夜間使用は中止、しかも利用者数は部屋の定員の半分までという事で2部屋続きを借りなくてはならない。土曜日はふさがっていて、日曜の昼になってしまった。奥村さんが何度も手続きをして下さった。
 ちょうど民藝館でやっている「アイヌ展」に合わせて、歴史民俗博物館から「マンローのフィルムから見えてくるもの」というDVDを借りて上映した。マンローというスコットランド人が半世紀以上前のアイヌの映像を残している。それがイギリスのナントカいう機関や、歴博、北海道大学などに残されており、それらフィルムの来歴を探って前後関係などを明らかにしようとしたものである。追跡の過程をわざわざ映像にした意義がよくわからない、文章で足りるのではないか、というのが正直な感想である。しかし、アイヌ人をはじめとする関係者の話を聞いて回ることで、結果としてマンローの事績、アイヌが置かれた現状、少数民族を見る視点の問題等々が浮かび上がってくる。
 ついでに、アイヌ遺骨の返還を取り上げたニュース映像をユーチューブから借用、上映した。

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 その後、戸田ヒロコさんから頂いた書籍、図録などを参加者にもらっていただいた。立派な本が多くて、参加者は大いに満足、感謝であった。戸田さんありがとうございました。
 書き忘れたが、参加者は14人、新人が5人も来て下さった。この方々のためにも、来年こそ例会を続けたいと思った。来月12月は、べにや民芸店さんで例会兼忘年会をと計画中だが、このところコロナ病の感染者数が増えており先が心配である。

アイヌ関係の映画の紹介、「カムイチェプ サケ漁と先住権」12月7日(月)12:00〜、新宿 K‘sシネマで。一回のみの上映らしい。例会で、日本国はアイヌを先住民族であると認めたものの先住権は認めていないと申し上げたが、先住権には当然鮭の漁業権も含まれている。
(藤田)


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2020年11月13日

岡田弘さんへ送る言葉

 此の七月十二日、備後屋民芸店社長・東京民藝協会会員 岡田弘氏が逝去された。私が協会に参加するより遥か前からの先輩会員で、実はよく慣れ親しんだ方でもないので、長い間の親交の思い出は語れないのです。
 ただ私が物造りとして、作品を仕入れて販売してもらったり、私自身が備後屋さんの品々を見るのが楽しかったりの関係でお付き合いさせて戴いたのでした。ただ 何時も買い物をするわけでも無い私を二階の囲炉裏の在る座席に誘い、機嫌よくお茶をいつも振る舞って下さったのを懐かしく思い出します。私の一方的な雑談を、ニコニコ楽しそうに聞いて下さり、昭和二年生まれの実姉のように、穏やかな表情でおられたのを忘れません。私は幼少の頃から書が好きで稽古してたので、共通点があったようで、彼の揮毫による「東京民藝協会たより」の表題文字は皆さん既知の文字です。
 平成十四年宇都宮・光徳寺にて氏の「私の書」展が行われ、プロの書家ではない方が寺を借りて開催するのは稀な事でしょうから、是非と鑑賞に参りました。その時私の姿を見るや転がるように迎えてくれ手を執って放さず、視たら涙を見せていました。ずーと説明して呉れ、痛いばかりに握手し別れたのを忘れられません。
 穏やかなこころの持ち主ではありましたが、実はあの字体は、不動の意力賜物だと感じています。恐らく頑固な一面があったに違いありません。
 その彼が最後の新年会二〇一七年二月四日銀座維新号での新年会の折、「あこがれのハワイ航路」を進んで余興に独唱されたのは、忘れられない思い出でした。
 商売が決してうまいとは言えないお人柄でしたが、穏やかな楽しさを感じさせてくれて感謝です。またいつかお会いしたいと思います。
令和二年十月十日
佐藤阡朗

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