「美の法門」。柳の晩年期の著作であり、民藝の集大成である。
「精神運動でない民藝運動の存在を許容することが出来ない」
民藝を単なる趣味と捉える内外への牽制である。今回の民藝夏期学校の舞台、富山県砺波や南砺エリアは柳が「美の法門」を書き上げた地でもある。講師の松井先生のご指導の下、よちよちと柳の思想を追いかけていった。
講義の内容を聞けば聞くほど、民藝の行き着く先が人間形成への道ではなかろうかと思う。民藝の道は禅にも茶道にも果ては数多の道と通じている。この道は宗教と同じである。
「宗教」とは自己と世界の存在根拠と存在理由を全身全霊をあげて明らかにする行為であって、それ以外の事柄ではない。(参照:「民藝夏期学校となみ会場報告」太田浩史 52頁『民藝』2019年3月号 803巻)人生如何に生きるべきか。二度とない人生を歩むために自分を一生かけて磨いていくのである。
真に美しいモノには「美」も「醜」もない。「美しかろう」「醜かろう」というのはあくまで相対的な見方だ。人の好き嫌いをただ反映させているだけである。真に美しいモノに「自我」はない。つまり、作為性が廃されている。「俺はこれだけのモノが作れるのだ!」と誇示するのでもなく、むやみやたらにデザインが浮き出て実際に使用するのを邪魔したりしない。そう、ただ「存在」しているのだ。主張もせず、ただ寄り添う。まるで守り神のように。

禅も茶道も「自我」をなくす。まず、禅、とりわけ臨済禅は公案(問題のもようなもの)を通して自己を磨く宗教である。禅に初めて一歩踏み出す者には等しく初関の公案が授けられる。それは「自我」があると通らない。いや、通れない。今までの人生で蓄積された経験や知識は、無意識に偏った見方になっていく。初関と向き合うだけの段階の場合、始終自我が表れ、邪魔をする。数息観(呼吸に合わせて息を数えていくこと)中、勉強のこと仕事のことその日その日に感じていることが止むことなく出てくる。湧き出るだけに留めるのであれば良いが、湧き出ることをいつまでも深堀するものだから集中しているとは言えない状況だ。「今」を「今」として味わっていないのである。次々と湧き出る自我を淡々と受け止めていけるようになれば、やっと禅という大海原の始まりに漕ぎ出せる。
茶道も思念の塊で動いていては、話にならない。茶杓から貴重な抹茶が畳にこぼれ、柄杓を建水から落とし、あらぬところに炭を接いでしまう。かといって、無心に無心にといっても間違った方向に行ってしまっては元も子もない。愚直に繰り返し、身体が正しい道を覚えるのを根気よく待たねばならない。「?」「?」のまま続け、いつか分かる日が来る世界だ。
「妙好人」としての在り方も何だか似ている。浄土真宗ならではの言葉で、信仰に篤く、日常生活までホトケサマがにじみ出ている人である。因幡の源左という方は「ようこそ、ようこそ、さてもさても」とよく言っていたそうな。普通の人なら怒り出しそうな場面でも、である。「自我」があれば様々なレベルの喜怒哀楽が噴出するだろう。「自我」を消すのではなく、そういう自分をどっかと受け止める。「自我」をなくす、という表現は訂正しよう。「自我」と「無我」が混じり合った状態と言えば良いのか。まだ道半ばの自身にとってこれを言い表す適当な言葉をまだ知らない。

「美の法門」はモノの宗教の話である。科学がどんなに発達しても宗教の存在意義はなくならない。人生如何に生きるべきか教えてくれる。宗教には必ず拠って立つべき経典がある。歴代の祖師の偉大さは経典を如何に解釈するかにかかる。宗教哲学に造詣の深い柳はモノの美しさを仏典の言葉で表現した。いわば、「美の法門」はモノの宗教の経典でもあるのだ。それが紡がれた場所は今回の会場の一つ、城端別院の善徳寺である。この地は蓮如上人を始めとする浄土真宗の信仰が篤い。ホトケサマの懐にすっぽり収まり、生まれた子を仏様からの授かりものとして大事に育てる風潮がある。五体満足でない場合、生後間もなく間引かれていた風習があった地域とは大違いである。こうした土地の雰囲気のような「土徳」はかの有名な棟方志功の作風をも変えたと聞く。「土徳」は自然に「お育て」に預かる力。土地の恵みを一身に受けること。(この2文は太田さんの言葉。)南砺の土地土地は風光明媚で、遮るような高い建物がない。どこまでも広がる田園風景にホッと一息吐ける。これが砺波の「土徳」。
また、光徳寺で運営スタッフの方達の手料理ほど心嬉しいおもてなしはなかった。同じく参加した朝田さんの言葉を借りるのであれば「自分自身がその内のひと品となり、土地の中に、土地の人の中に溶け込ませてもらったようでもあり、まさに饗応不尽…」である。(参照:「となみで見たひかり」朝田 淳一 58頁 『民藝』2019年3月号 803巻)10以上のビュッフェスタイル供するには多大な時間と手間がかかったであろう。その心尽くしにただただ感謝し、いただく。手料理一つ一つが民藝の器に盛られている。夜風がふわりと孕み、光と闇が全てを包み込む。心が更にあったまる。「あぁ、幸せだなぁ」幸せの基準は人それぞれであろうけれども「吾唯足るを知る」の一言に尽きる。与えられた環境に感謝することから始まるのでないだろうか?
民藝も禅も茶道もあれやこれやの道も、人が人として幸せになるための道標なのだろう。心を磨けるのは一世代限り。心を磨く過程を「悟り」「人間形成」「茶禅一味」などと人は呼ぶ。全ての道は精神的な高みに通ずる。相対の世界から絶対の世界へ意識は切り替わっていく。
幸せに寄り添う民藝。有難い夏期学校のひと時であった。
(鈴木華子)
posted by 東京民藝協会 at 20:48|
Comment(0)
|
その他