
根子町人形 三番叟(福島県立博物館蔵)
根子町人形は清水町宿(現在の福島県福島市清水町)という奥州街道の宿場町で茶屋兼旅籠屋の仙台屋と隣家吉野家が江戸末期から明治、大正頃まで製作していた土人形です。
こんな伝承が残っています。
(信楽社『根っ子町土人形』より)
江戸時代末ごろ、仙台堤人形窯元の若い嫁が、舅の嫁いびりに堪えかね、同情する若い腕ききの工人と共に江戸を指して出奔したが、途中清水町宿で女が急病となり、旅籠仙台屋に援われて助かった。逗留中人形師は、堤人形を造り店に並べた。それが評判となり、仙台屋の主人は二人のために屋敷内に工房を作り製作にのり出し、主人もその技を伝授されて自ら窯元となって製作したのにはじまるという
様々な人が行き交う宿場町ならではのとても興味深いお話です。
根子町人形は素焼きの上に和紙が貼られ、胡粉を塗り、墨、顔料、染料で彩色されています。土人形に和紙を貼るのは割れなど補強で使用する程度ですが、全体に貼る事はなく、これは地元の粘土が荒く脆い為、補強として全体に和紙が貼られたのではないかといわれています。

根子町人形 小鼓(個人蔵)
先の伝承の通り堤系ではありますが、製作元に原型が残っていた記録があり、すべて堤人形を転用して製作していたわけではなく、独自の人形が作られていたことがわかります。各地の土人形もそうであったように、製作地の生活環境や文化、また作り手の人となりにより人形は変化していきました。
根子町人形は絵画的表現に特徴があり、それを北原直喜氏は「軽妙洒脱の美」と評しています。
(関西郷土玩具研究会『郷土玩具ギャラリー』創刊号・根っ子町人形特集(昭和55年1月発行))
実際に堤人形、花巻人形、相良人形と見比べるとその雰囲気がわかるかと思います。
その後、地元の人や宿場町を行き交う人々、行商先の人々により人形が売られていきますが、明治20年の東北線開通、陸上交通機関の発達により清水町宿は衰退し、またブリキ製の新興玩具などにおされ、養蚕農家が求めた蚕神の製作を最後に大正頃には根子町人形は作られなくなりました。

三宝持ち(再現)

鯛乗り恵比須(再現)
なお、根子町人形について、菅野真一氏(宮城県白石市の郷土史家・こけし研究家)の推薦により東京民藝協会発行の「民藝手帖」228号(昭和52年5月)に福島市史編纂室長であった大村三良氏が執筆されています。
この東京民藝協会とのご縁により全国に根子町人形が知られることとなりました。
幸田冬子(土人形製作者)
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