2019年03月25日

尾久彰三氏コレクションの展示会と解説

尾久氏のコレクション展示会が行われています。

2/19(水)〜4/28(日)
相模原市「小原の郷」
TEL: 042-684-5858 
相模原市緑区小原711-2
(JR相模湖駅から徒歩20分/バス 駅前バス停2番から三ツ木行き、小原下車徒歩2分)
開館時間9:30〜4:30 月曜日休み  
 
ご本人による解説会
○4月18日(木) 14:30〜
○4月28日(日) 14:30〜
posted by 東京民藝協会 at 20:01| Comment(0) | お知らせ

2019年03月22日

1月例会 民藝館特別展「柳宗悦の直観」見学

 間が開いてしまったが、1月26日㈯に民藝館見学の例会をやった。民藝館の特別展示は、「柳宗悦の直観」というもので、文字通りに受け取れば、「勝手に見てくれ」ということである。これで館に解説をお願いするのはどうかとも思ったが、担当の月森さんから「説明を一切しない展覧会です。通常のご説明はできないかもしれません。ご覧いただいた後に少しお話をさせていただきます」というご返事をいただいた。人が集まるかどうか心配だったが、10人以上の方が来て下さったし、会員以外のひとも加わって下さった。

 雑誌「民藝」1月号はこの特別展の特集である。5ページの巻頭で、「直観」を理解することの難しさが指摘されている。これによると直観は「直感という身体感覚にのみ基づいた私的な判断と混同されやすい」加えて「出自の異なる仏典のナントカという言葉と西洋哲学のナントカという言葉の訳語として区別なく使われている」(ナントカはアルファベットでないのでここに書けない)のだそうだ。
 なんのことかわからないのだが、さらに佐藤光氏が「直観とは何だろうか」(p11〜)で、《ブレイクが「直観」という単語を全くと言っていいほど使わなかったにもかかわらず、柳は『ヰイリアム・ブレーク』で「直観」という言葉を多用した》このころの柳は《「直観」をまだ概念でとらえていた、とは言えないだろうか》と書かれている。そうだとすると、当初柳はブレイクに依拠しながら一部曲解しつつ直観を説いた、と読める。で、いよいよわからない。------オレの脳で柳の思考過程を辿り理解しようなんてことは無理であるから当然だが。

 ところで「直観で見ろ」ということを言った人は柳ばかりではない。こんな文章があった。《見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、ぼくらが野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それはすみれの花だとわかる。何だ、すみれの花か、と思った瞬間に、ぼくらはもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。ぼくらは心の中でお喋りをしたのです。すみれの花という言葉が、ぼくらの心のうちに這入って来れば、ぼくらは、もう眼を閉じるのです。すみれの花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の感じを、そのまま、持ち続け、花を黙ったまま見続けていれば、花は僕らに、かって見たこともなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。》この文章、小林秀雄の『美を求める心』の一節だが、いまでも読むたびに感心する。そして、この展示のことを知ったとき、まず思ったのがこれであった。-----柳の何らかの文を思い浮かべるべきだろうが、あまり読んでいないのでわからない。

 さて展示はたとえてみると和洋中飛び切りの料理の食べ放題といった趣で、全室見終わったら満腹という感じであった。我々は、いや私はこういう展示をいわば無秩序としてしか感受できないのである。「展示はさぞ難しかったでしょうね」と月森さんにお聞きしたら、そうでもなかったというご返事。月森さんはご自身のなかに美の秩序があってそれに従った、だから難しくなかったのだろうか。
 ともあれこのように説明のない展示は、素人からすると不安なものであり、特に気にかかるものについては何か知りたくもなる。これについて月森さんは、知ろうとすることを否定するものではない、と何度もおっしゃっていた。ただし、今回はただ見て下さい、と。であるから我々はこの試みを受け入れて、黙って見るべきだろう。先の文章で小林は《それほど、黙って物を見るという事は難しいことです》とも書いている。
(藤田)

posted by 東京民藝協会 at 15:26| Comment(0) | 例会

2019年03月17日

次回の例会

○東京民藝協会2019年4月例会
「たくみ 阿部眞士作陶展」

日 時 2019年4月2日(火)18時〜
場 所 たくみ 中央区銀座8-4-2
講 師 阿部眞士氏(陶芸家 祐工窯)
参加費 なし
定 員  25人くらい(会員優先、申込先着順)
参加申込 下記のメールに4月1日(木)まで
tokyomingeikyokai@gmail.com
または 03-3571-2017(たくみ)

たくみで開催中の「阿部眞士作陶展」(3/30(土)〜4/6(土))に合わせて、同氏のお話を聞く会を行います。阿部氏は、滝田項一先生のもとで修業され、現在は故郷北九州市に戻って父祐工氏の仕事をついでおられます。また昨年から「日本民藝館展」の審査員も務めておられます。終了後、近くで懇親会をする予定です。(たくみ 野崎)
posted by 東京民藝協会 at 19:26| Comment(0) | 例会

2019年03月08日

骨の洗い方-----映画「洗骨」

 変な表題をつけてみたが、単に映画の紹介、その内容全体の紹介でなくて、題材になっている「洗骨」という風習に限っての紹介です。

 民藝の世界ではよく知られる厨子甕ジーシーガミ、あれは本来は洗骨後の骨を納めるものだそうだ。たしかに、火葬後の骨はあれほどのかさはないような気がする。
 洗骨という風習は沖縄や奄美の南島にあって、かの地では土葬、火葬が行われない。風葬をして数年後にそれを洗い、厨子甕に納める。そして門中の大きな墓に先祖と共にまつる。墓の中にはたくさんの甕が並んでいるそうだ。こんな程度のことを聞いていたが、その実際を映像で見ることができる映画である。

tmk190308.jpg
http://senkotsu-movie.com/

 墓、この映画では海に向かう崖に掘られた穴だが、入り口は石積、その石を外すと中に木棺(屈葬の)が置いてある。それを運び出して骨を取り出し洗う。頭蓋骨は椿油で清める。そして厨子甕に納めるのである。
 現在は沖縄、奄美でもほとんど火葬になっていて、この風習は沖縄の先島や奄美の一部にだけ残っているという。ずっと以前に新聞で読んだのだが、洗骨を実際にやるのは女性で、その女性たちから早く廃止してくれという声が上がっているがなかなか廃止されない、というような記事だった。この記事の影響もあってか、恐ろしい風習だという印象を抱いていた。しかしこの映画では神々しい家族の行為として描いている。

tmk190308_02.jpg
http://okamoto-taro.okinawa/

 物語の展開は作りすぎという感想を持ったが、沖縄の美しい風物を見ることができる。ただの道や草木が美しい。これを書きながらもう一本の映画を思い出した。「岡本太郎の沖縄」という映画で、これも一部だが風葬を扱ったものだった。岡本が久高島の風葬の場に立ち入って、これに悪い噂がたった。それについて真相を明らかにしようとする内容が含まれている。複雑すぎてきちんと紹介できないので、こういう映画がありますというこ
とのみ。        
(藤田)
posted by 東京民藝協会 at 19:29| Comment(0) | その他