2025年01月30日

1月例会と新年会

 1月26日(土)例会、日本民藝館特別展の見学と新年会を行った。例会の参加者は36名、新年会の参加者34名であった
 日本民藝館特別展は「仏教美学 柳宗悦が見届けたもの」という表題で、展示の担当者、月森俊文さんが説明をして下さった。古今東西いろんなものが混ざって展示されている。数も相当に多かった。そして、それら展示物に名前他一切の説明がつかないという珍しい展示で、こういう展示はおそらく前例がないのではないか。唯一の前例は2019年の民藝館特別展「柳宗悦の直観」だけかもしれない。これも月森さんの担当であったから、彼の一貫した考え方を伺うことができるだろう。

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 われわれはとにかく説明、物語を欲している。説明がないとものを見ることができない。説明を聞いてものを見たような気になる。小林秀雄がむかし「ぼくらが野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それはすみれの花だとわかる。何だ、すみれの花か、と思った瞬間に、ぼくらはもう花の形も色も見るのを止めるでしょう」と言っている。月森さんが、「ボーと見ていても見ることはできません」とおっしゃったが、その通りであろう。が、ボーとでない見方がわからないのが凡人であるから、凡人はやはり救われない、かな。
 私はそもそも「無有好醜の願」がわからないし、ものをボーと見ているだけなので、この展示についても、説明のないことについてもとやかく言えないのだが、月森さんの狙いと熱意は恐縮ながら感じることができたような気がする。なお、月森さんが担当する展示はこれが最後だとのことである。月森さんには当会の例会に何度となく展示説明をしていただいた。感謝申し上げます。

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 そのあと、駒場駅前の「ペスカビアンカ」というレストランに移動して新年会を行った。会費は3000円、今時としては安いほうだろう。会に先立って、野ア会長から目下進行中の白崎撮影写真のデジタル化の寄付についての報告があった。それによるとあと少しで目標額の500万円に達するという。依頼中のデジタル化作業も順調にすすんでいるとのことで、実に喜ばしい。その後井坂さんの名司会によって和やかに進行、全員の自己紹介もやることができた。司会者は食べたり飲んだりできる時間が少ないので大変である。ありがとうございました。
(藤田)

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2025年01月28日

映画の紹介「ここにいる、生きている」

 この題名からどんな映画を思い浮かべるだろう。何かのドキュメンタリーかとまでは思えても、これが日本の海の昆布の話とは思えないのではないか。ポスターも監督の後ろ姿を中央に据えたもので、どうも意図がわからない。題名とポスターから、監督が主人公に見えてしまう。この題名はまずいと思うが、中身が興味深かったので紹介することとした。
 吉祥寺のアップリンクで上映していて、たまたまその最終日1月23日に行ったら上映後に監督の挨拶があった。写真はその時のものである。監督は長谷川友美と言う女性で、ほとんど単独で撮影した自主映画だそうだ。監督は逗子に引っ越したことをきっかけに、日本の海の様子が変わって沿岸漁業ができなくなりつつあるということを知った。その具体的な様子を知りたくて日本中の海を見て回ったという。

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 今日本の海は温暖化の影響で磯焼けといういわば海の砂漠化が進行している。大量発生した食べられないウニが昆布など海藻を食べつくし、ひいてはそこに住む魚もいなくなっているという。ウニは駆除しても駆除しても追いつかないほど増えている。この映画はその現状と、これに対する漁業関係者の戦いを取材したものである。
 私は磯焼けということを聞いてはいても、これほど深刻な事態になっていることは知らなかった。世をあげてうまいものを食いたいとか珍しいものを食いたいとかに夢中である。またことに近年は器にも関心が集まっている。しかし、その根本の食料生産がどうなっているかということについて、多くの人は無関心である。その無関心の裏側で地球上の耕地がどんどん失われ、種苗は世界的な大企業数社に囲い込まれ、それと関連して生物の多様性が失われてきている。この映画に即して言うと、昆布がウニに食い尽くされようとしているのだ。
 我々はこのような現状を知らなくてはならないし、このような現状を正そうとして困難な戦いをしている人がいることも知らなくてはならないのではないか。この映画でその一端を知ることができる。
 以上、簡単な紹介でした。
(藤田)

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2024年11月21日

11月例会2つ オンライン例会と民藝館見学

 11月1日(金)オンラインの例会を行った。「ブータンの社会と工芸」と題して久保淳子(くぼあつこ)さんに映像を交えたお話を伺った。久保さんはブータンが好きなあまり2年間滞在したそうで、その後旅行ガイドとして20年以上にわたってたくさんの人をブータンに案内してきた。5年位前、私はインド北東部、中国とブータン王国の国境あたりを旅行したのだが、その旅行を企画し案内して下さったのが久保さんだった。それがご縁で、今回お話をお願いして引きうけていただいた。

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 1時間ちょうどでブータン王国の概要と染織などの工芸を、映像を交えてお話いただいた。あとで受講者に聞いたら、話がとても上手で聞きやすかったし内容も面白かった、もっと聞きたいという感想が多かった。
 ブータンといっても日本ではあまり馴染みがないだろう。わたしも「ブータン山の教室」と「ゲンボとタシの夢見るブータン」という映画を見たくらい、ネパールやチベットとの区別もつかない。久保さんのお話はわたしにとっては勿論だが、会員の皆さんにとっても初耳のことが多かったのではないだろか。
 印象深かったことをひとつ、それは民族衣装のもつ意味である。ブータンでは公の場で、男がゴという、女はキラという民族衣装を着用することが義務付けられている。生徒の制服ももちろんこれである。この背景には多分ブータン王国がおかれた特殊な環境があるのだろう。ブータンの立国は地政学的になかなか難しい。そのうえ、民族と言語も多様だという。このような環境下、どうやって国民の一体感を形成するか、その対応策の一つが民族衣装の着用義務ということではないだろうか。衣装が寒暖の調整といった役割のほかに、文化的歴史的な象徴として機能していることに改めて気づかされた。-----そういえば昔、永六輔が天皇に和服を着てもらおうという主張をしていたっけ。
 国民総幸福という考え方、王室やチベット仏教の存在も、国民意識の醸成、統合に寄与しているだろう。国民総幸福と聞いて、私のような気楽な外部の人間は感心したりしているのだが、話はそう単純ではない。大概の人は物質的により豊かな生活に憧れる。近年は若年層のオーストラリアへの出稼ぎが盛んで、国内の空洞化が問題になっているとか。そのオーストラリア出稼ぎの人々が、高額なゴやキラをどんどん注文してきて、一時衰退していた手織りが復活しているそうで、いやはや世の中は複雑である。
 このオンライン例会には、45人が参加して下さってこれまでで最高の人数だった。久保さんのファンが半分くらいいたような感じであった。
 久保さん、ありがとうございました。

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 なお、久保さんの活動は「ヤクランド」というホームページで拝見することができる。さらに、旅行報告やブータンのことを広く紹介する「ヤクランド通信」というパンフレットを月刊で発行、なんと最新号は123号である。その最新号の表紙の写真を載せさせていただいた。またさらにもう一つ上げた写真は「ブータンのカード織」という冊子の表紙である。これも久保さんが制作しておられる。以上の2冊とブータンその他の旅行について関心のある方は、上記ヤクランドを見て下さい。カード織のほうは私の手元に1冊あるので、欲しい人は言って下さい。1500円です。

 11月2日(土)に、民藝館の見学会を行った。
 特別展「芹沢_介の世界」の展示で、担当の古屋学芸員に忙しい中ご案内いただいた。今回の展示も観覧者が多くて、館の迷惑にならないか心配した(迷惑にはなっているだろうが)。観覧中、話に出たのは、どうして芹沢がこんなに人気があるのだろうということであった。参加者は25人。今回は希望者が多すぎて、締め切り日以後に申し込まれた方はお断りせざるを得なかった。
 古屋さんありがとうございました。
(藤田)


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松平斉光コラム 松平斉光とシャルロット=ペリアン

 民藝にはお馴染みの、フランス人女性デザイナーにシャルロット=ペリアン(1903-1999)がいる。彼女は、昭和2年に24歳でル・コルビュジエのアトリエに入り、そこに遅れて前川國男や坂倉準三が来て同僚となり日本との縁ができる。

 他方、民藝史上では馴染みがないが、確かに柳宗理らと交流があり、ペリアンの友人でもあった人物に松平斉光男爵がいる。昭和5年にパリ大学に留学し、昭和11年に博士論文「Les fêtes saisonnières au Japon (Province de Mikawa) : étude descriptive et sociologique」(「日本の季節の祭礼(三河地方) : 記述的・社会学的研究)」)を提出しパリ大学の文学博士号を取得する傍ら、昭和13年には画家として「Au coin de la rue (街角にて)」をサロン・ドートンヌに出品した斉光は、学者でもありアーティストでもあった。

 その頃の日本政府は、昭和4年の世界恐慌以来の不経済の脱却を、貿易による外貨獲得にも求め、昭和12年商工省貿易局を外局化して拡充し、貿易品としての工芸品の輸出を促進すべく外国人デザイナーの招聘を模索していた。昭和15年初頭、この件は宗悦の理解者である貿易局施設課長水谷良一から宗理へ、宗理からすでに日本に帰国していた坂倉へと相談が行き、坂倉がペリアンを推挙し、商工省と島屋を代表して棟方志功が認めた8メートルの書簡がペリアンへ贈られた。坂倉のフランス語文を志功が描いた、筆のフランス語による賞賛の文句と墨絵に口説き落とされたペリアンは、商工省の輸出工芸指導顧問としての来日を受諾した。

 昭和15年6月15日、マルセイユから日本郵船の白山丸が出帆し、一等客室の旅客としてペリアンは日本へ2ヶ月の船旅に出た。出帆の前日には、パリにドイツ軍が入城し、翌日には、フランス首相に就いたペタン元帥がドイツに降伏を申し入れるという時であり、岡本太郎や藤田嗣治も乗っていた日本への最後の帰還船でもあった。

 船上でペリアンが写るツーショット写真の男性が斉光男爵その人である。ペリアンの斉光を始めとする日本人との交友関係の研究が俟たれるが、この二人は気が合ったようで、ペリアンは斉光との邂逅を「重要となる出会い」と自叙伝に記している。
 
 ペリアンと斉光は東京で再会し、ペリアンの職務に関しては、昭和15年11月12日の仙台の工芸指導所東北支所でのペリアン座談会の相手は斉光であり、12月19日の巣鴨の工芸指導所のペリアン訪問、同23日の座談会は斉光・宗理の同道であった。この座談会では『工芸ニュース』に「通訳は松平成光〔ママ 斉光〕氏を煩はした事を附記し、御好意を陳謝する次第である。」と書かれており、斉光が好意で通訳をしてあげたようである。
 斉光は、昭和17年1月には、ペリアンが前月のインドシナでの展示会設営にハノイへ向かってのち台湾に向かい、戦争の影響で足止めを喰らったため、速やかに日本に戻れるよう皇室に働きかけをもし、坂倉らと出迎えにも行っている。
ペリアンはその後日本が進駐した南部フランス領インドシナのダラットで終戦を迎えた後、日本の敗戦とともにフランスからの独立を目指してベトナム人たちの反乱が起きるのを横目に、昭和21年2月に母国行きの引き揚げ船に乗った。
帰国後日本の友人たちを案じるペリアンは、昭和23年5月に坂倉へ宛て手紙を認めた。宛先は坂倉であるが、文面の宛名は「親愛なる友人たち」と書いてあり、気に掛ける人物の中に、文化学院創設者西村伊作娘ヨネ・宗悦・宗理らと斉光が入っている。
 戦後ペリアンは昭和28年に再来日を果たしてから晩年まで来日を重ねた。その時にどういう民藝界の人々や、場所を訪ねたのであろうか。
 日本と民藝を愛したペリアンへの興味は尽きない。

シャルロット=ペリアン(北代美和子訳)『シャルロット・ペリアン自伝』、みすず書房、2009
シャルロット・ペリアンと日本研究会『シャルロット・ペリアンと日本』、鹿島出版会、2011
工業技術院産業工芸試験所『工芸ニュース』10(4)、丸善、1941

(世川祐多)
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