2024年07月23日

『志賀さんをしのんで  志賀直邦追悼文集』を刊行しました

 長い間当東京民藝協会の会長、日本民藝館や日本民藝協会の役員をなさってこられた、たくみの社長 志賀直邦氏が逝去なさったのが2020年である。90歳だった。それからずいぶん時間がたってしまったが、この6月、やっと追悼文集を出すことができた。
 逝去後、会員ほか縁のあった方々に追悼文を寄せて下さるようにお願いして、ブログに順次掲載させていただいた。それらと、志賀さんのインタビュー、「民藝」誌にお書きになった文章を転載した。インタビューは映画監督のマーティ・グロス氏が2017年に民藝館の西館で行ったもので、その映像から書き起こした。転載した文章は「民藝運動のなかから 「たくみ」創立満五十周年を機に」「民藝運動と鄙の論理 再生への手がかりを求めて」「『民藝運動九十年の歩み』の執筆を終えて」の三本で、民藝編集部の村上さんに選んでいただいた。
 そして會田秀明日本民藝協会前会長、井上泰秋現会長、佐藤阡朗東京民芸協会前会長、尾久彰三日本民藝館元学芸部長、杉山享司日本民藝館常務理事、筑摩書房の藤岡泰介氏、たくみの元社員 世川進氏、高梨康雄氏ほか民藝協会の会員など、全部で19人の追悼文を掲載した。
 インタビュー映像を提供してくださったマーティ氏、扉の写真を提供してくださった写真家の藤本巧氏ほか、執筆して下さった方々に深く感謝申し上げます。

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 編集は澁川祐子さん、村上豊隆さんそしてわたくし藤田が、校正を加藤亜希子さんが、装幀を高橋克治さんが担当した。
450部ほど印刷して、当協会の会員と、各地地方協会、全国大会 山形会場の参加者等々に配布した。
 個人的なことを申し上げるのだが、志賀さんに大変お世話になった私としては、この追悼文集を出すことができてほっとしている。
 なお出西窯とその代表 多々納真氏から、この出版に対して5万円の寄付を頂いたことを皆様に
 ご報告します。出西窯と多々納さん、ありがとうございました。
(事務局 藤田)
  
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2024年07月22日

手のひらの旅 ―手仕事を探して(全10回) 7 ガラスに刻む心

 各地の工藝を訪ねる「手のひらの旅」は、地方だけにかぎらない。世界有数の大都市である東京にも、そんな手仕事がまだ残っている。
 つい150年ほど前まで、東京は江戸とよばれていた。震災や空襲で多くの建築物は失われたが、その伝統は手から手へと受け継がれてきた。そのひとつが「江戸切子」だ。
 切子とは、回転する砥石にガラスをあてて溝をつくり、紋様を描く工藝のことである。天保5年(1834年)、大伝馬町の加賀屋久兵衛が、ガラスの器に文様を刻んだことが最初の記録である。長崎や大阪に伝わった西洋のカットグラスの技法を参考に「江戸切子」は始まった。
 明治になり、鹿鳴館時代にはイギリスから本場のカットグラス職人が招かれて精緻な技術を「江戸切子」の職人に教えた。また維新後に衰退した「薩摩切子」の職人たちが東京に移り住み、華やかな「色きせガラス」の技法を伝えて、さらに彩り豊かに花開いていった。
 さて「江戸切子」の魅力とはなんだろう? 伝統工芸士で三代秀石を名のる堀口徹さんの工房を訪ねた。

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 「まずはこの美しいきらめき、そして色、陰影、さらに模様が反射して無限に拡がる映り込み。切子ならではの魅力です。」と教えてくれた。

 そしてふいに切子のグラスを手渡してくれた。私は思わず両手で包むように受けた。
「ね、こういうふうに皆さん必ず両手で丁寧に受け取ってくれるんです。人の所作すらも変える力がこの工藝にはあるんです。」
 では西洋のカットグラスとどう違うのだろう?
 「技法の上ではそれほど変わりません。しかし日本の場合は、文様に吉祥の意味が込められてきたんです。」
 「江戸切子」はお祝いや贈答品にされることが多いハレの器である。だから贈る人の願いが託される。
魔除けになる「籠目文」。
成長を願う「麻の葉文」。
子孫繁栄の「魚子(ななこ)文」。
そして喜び久しいことを祈る「菊花文」。
 文様に願いと祈りをこめる行為は、例えば漆器や着物など多くの日本の工藝に見られる共通の特徴である。
 たんなる美しさだけでも、デザインだけでもない。人の所作を無意識にいざない、大切な人の幸福を願う日本の工藝の伝統が、「江戸切子」にも確かに受け継がれている。
(服飾ブランド matohuデザイナー 堀畑裕之)
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2024年07月13日

映画 「ちゃわんやのはなし」

 映画「ちゃわんやのはなし」を見た。薩摩焼第15代沈寿官が自らと自らの一族そして苗代川の苦闘の歴史を語ったものである。当事者が語る映像は当然のことながら真に迫ったもので、その実情をもう少し知りたくなった。それであれこれ拾い読みして文章にしたらやたら長くなってしまった。(忙しい人は最初と最後を読んで下さい)
 苗代川やその周辺のいわゆる帰化人陶工が差別を受けてきたということは、これまでにも聞いていた。他方、400年前の事柄がいまだに尾を引いているということは信じがたくもあった。だがこの映画で15代は、差別が依然として残り、氏を、苗代川の人々を苦しめてきたと言う。ふつう400年も経てば大集団の中の小集団は吸収されてなくなってしまうものと思うが、この苗代川はそうではなかった。人々は連行されてきた当時から決まった場所に閉じ込められ、朝鮮風の生活を保つことを強制された。薩摩藩にとっては、朝鮮との密貿易のためにも、また贈答品として重要な白薩摩の生産地、朝鮮通詞の供給地として囲い込んでおく必要があった。つまり苗代川は差別を保存する仕組みのもとで400年存続させられたという実に悲劇的な特殊な小集団であった。沈家はさらに、その小集団の有力者、リーダーであったから、一般の住民とはまた異なる困難と葛藤を抱えたであろう。

 明治維新後は藩の庇護がなくなり、自分たちの選良意識の根拠をも失って、いわばむき出しの差別に対面することとなった。野間吉夫が『苗代川』(東峰書房刊)で、柳の九州講演旅行の折のこととして次のように書いている。〈普通ならまあまあといって部屋に通してお茶の一ぱいもふるまってやるのに、ここの人たちはいまだに陶工たちを高麗人の子孫として卑下しているような気がしてならなかった。〉これが昭和27年(1952)のことである。
 井上和枝「朝鮮人村落「苗代川」の日本化と解体」(『薩摩・朝鮮陶工村の四百年』岩波書店刊 所収)という論文では、2013年の調査において〈朝鮮式「姓」を記す墓は、表面を削って名前をわからなくして家門の墓地の中に、または林の中に複数の姓の墓がまとめて置かれている〉という悲しい有様が報告されている。
 さらに言うと、司馬遼太郎の小説に『故郷忘じがたく候』というものがある。この小説によって苗代川と沈寿官家が世の中に広く知られることになるのだが、地元から、これで差別が表ざたになって迷惑だという反発が相当あったといわれる。

 苗代川は陶業地として隆盛した時期はあるものの、ことに戦後は衰退の途をたどり、昭和28年(1953)、この年は鮫島佐太郎の「黒ちょか」がニューヨークの世界民芸展に一等入賞した年なのだが、そのころには黒物を作る業者が半農半陶の10余人、沈寿官窯が白薩摩を守るただ一軒の窯元になっていた。(姜魏堂『秘匿 薩摩の壺屋』による。ただし、『工藝』41の水谷良一「苗代川襍考」では、〈四つの白物の窯と、七つの黒物の窯とがある〉) 多くの住民は差別から逃れるために流失し、苗代川という地名も忌避されて美山に代わった。住民の朝鮮式姓もほぼすべてが日本式氏に改められた。沈家も14代の時に大迫姓に変わっている。

 15代は、前掲の『薩摩・朝鮮陶工村の四百年』のなかのインタビューで語っている。〈私は、本当のことを言うとここに住みたくなかった。たくさんの人がこの村を捨てて出ていったように、私もこの家に生まれてなかったら、多分出ていったと思うんです。(中略)私は高校時代から単身東京で下宿生活をしていて、たまに帰ってくるとき、たまらなく重いんですよ。鹿児島の駅、伊集院の駅に近づくにつれてだんだん重〜い感じになってくるんです。だけれども、それだからこそ逆に捨てきれない思いがあったんです。おそらく父もそうですし、祖父もそうでしょう。曾祖父の時代は明治ですからそういうこともなかったようですがね。そんなことを考えると、ただ暗いだとか、何か重たいだとかいう理由で家業を継ぐのを断れるのかなと思ったときに、断り切れなかった。〉
 15代は大学卒業後修行を開始、京都、イタリア、韓国で学び、韓国ではオンギを作る窯場で働いた。今はどうか知らないが、韓国では焼きものづくりは社会の下層民が携わる仕事と考えられており、日本の窯元のお坊ちゃんがそのような場所に飛び込んだのである。朝は3時から仕事して、夕方飯を食う時は箸を持つ力さえ出せないような過酷な労働に従ったという。映画の中でオンギの窯元は、15代のことを「韓国人が3年かかる仕事を1年でやったすごい男」だと語っている。

 帰国後実家に戻って家業を継ぐことになるのだが、ここに思ってもみない苦労が加わる。それは父14代沈寿官のいじめで、それがためにうつ病になってしまったと15代は告白する。母が死んだとき、15代は父に向って「俺たちの確執が母を早死にさせてしまったのではないか」と言ったという。なぜ父は子をいじめたのか、いじめなくてはならなかったのか、映画ではそれ以上の説明がない。
 上で触れた『故郷-----』、そこで伝えられた悲劇の歴史、窯場のたたずまい、ひげの立派な風貌、韓国名誉総領事などの栄誉、それらが相まって14代は伝説的な人物となった。ただここで一つ足りないものがあった。『故郷-----』でなぜか触れられていないのだが、14代は大学卒業後30代半ばまで東京で代議士の秘書をしていたらしい。この間本格的な陶芸の修業はしていなかったのではないだろうか。窯元であるから必ずしも実技は要求されないはずだが、このことが引け目となって子の成長を喜べなかった、というのが私の推測、いや邪推か?、である。-----他人の家の問題についてとやかく言うことは失礼千万ではあるが。

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 ところで、柳は苗代川について次のように書いている。〈明治までは特殊な部落であって雑婚を堅く封じられた。それがため幸いにも純粋な血が保たれたのである。この事は品物の血をも清くしたと私は思う。村は挙げて鮮祖檀君を今も祠る。豊公の戦役この方、幾百の陶工が海を越え、土を追って居を卜したが、その中でこの苗代川ほど歴史を固く守った所はなくまたここほど高麗人の今も集団する土地はない。〉(『工藝』41号 「苗代川の黒物」)
 これを読んで、「幸いにも」はないよな、と思わずにはいられない。柳にはこの苗代川の人々に対して悪意も蔑視もないようだが、その人々が現実に受けている差別には無関心、あるいは楽観的である。苗代川の人と暮らしには美しいものを創造する力があるのだから、差別を跳ね返して誇り高く生きればいいじゃないか、と言っているようだ。こういう論調はたとえば琉球方言論争にもみられたと思う。白樺派の人たちの特権意識や自己肯定を、苗代川や琉球の人々に単純に反映させたらこういう見方も成立するのだろう。そんなことが実際に可能かどうかは甚だ疑問だが。

 映画では最後のほうで、15代沈寿官が現在の考え方、心境を語る。韓国は父祖の国、日本は母の国でありどちらかを選択するのではない、その両者に架橋する存在、それが自分というものなんだ。日本人であるとかないとかは大した問題ではない、自らを一個の人類に仕立て上げていく、それが自分と一族の課題なんだと(正確な表現ではないが)。
映画の内容としては、余分なところがあったり足りないとことがあったりだが、15代の顔と話し方を見るだけで見る価値のある映画であった。
(藤田邦彦)

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2024年07月11日

古民藝もりたさんの話を聞いて

 4月5日の例会は「古民藝もりた」さんの店舗から中継でのお話し会があり、皆さんと一緒にリモートで聞かせて頂きました。
 まずお店を始めるまでの経緯が面白く聞き入ってしまいました。12歳で終戦を迎えた森田さん、昭和8年生まれで91歳になられました。三重県津のご出身で家業はタオルの製造をされていました。肺結核を患ったこともあったが上京し予備校に通っていた頃、ある米軍退役軍人の大佐と出会ったことが大きな転機に。当時アメリカのデパートなどのバイヤーが主に箪笥や伊万里などを仕入に度々来日しており、日本での品集めをし仲介していたのがその方で、手伝いをすることになったそうです。終戦より数年経ってもなお混沌とした様子だったのではないかと想像しますが、その中で惹かれるところに飛び込んでいくところも自然ななりゆきのように聞こえます。

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 7~8年経った頃その大佐が亡くなり、どうしたものかと思ったけれど自身の道を決め自身の店を持つに至ります。当時”古民藝”という看板を掲げていた店がすでに何軒かあったが、”古美術”というよりもう少し敷居が低く入りやすいようにと考えたとのことです。古民藝や古道具、国内でも当時からそうしたものに興味を持つ人たちが少なからずいたのですね。都市と地方の違いもある中で、品自体についてもさることながら世に出るまでの道のりも大事な点に思えます。
 店内の品物もほんの一部ですが、紹介して下さいました。庄内地方の裂織り、”ぼろ”と今は言われることの多い端切れを合わせたもの、着物の下に着る汗はじき(汗で身体が冷えないようにする為)、芭蕉布、真田帯、和紙を使った紙子の他、中国の少数民族の衣装、それからアヘンを量る為の鉄の細工のある道具など。大変貴重な品も多いのではないかと思います。どこでどのように使われていたのか思いをめぐらせながら、森田さんや奥様の説明から一つ一つの品を紐解く面白みを感じました。

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 お店は六本木に3年、その後青山の骨董通りで53年。この1月から経堂に移られました。激動の時代とひと言では語れませんが、終戦後から現在に至る人々の暮らしはものすごいスピードで変わっていったことでしょう。この年月に多くの品物を見つめ紹介し続け、手にした方々に潤いを与え続けていることと思います。美しい布はそれだけで魅力あるもの、どこか安らぎを覚えます。
 かなり以前に青山のお店に伺ったことがあり、木製の長いシャベルのようなものを見せて頂きました。東南アジアのものだったと思うのですが、奥様からとても丁寧に説明して頂いた覚えがあります。日本や諸外国の染織りのものを中心に、大変幅広い品を扱っていらっしゃいます。新店舗は以前と同様の開放的な明るい雰囲気です。改めて訪ねてみたいです。
(栗山花子)

posted by 東京民藝協会 at 19:24| Comment(0) | 例会